うちには、なぜか古銭がいろいろと残っているのだが、この十銭銅貨は特別な存在だ。1945年(昭和20)3月10日に、東日本橋のわが家にあったものだからだ。前日、3月9日の深夜、2機のB29が東京上空に姿を見せ、市内へ警戒警報が発令された。だが、この2機はすぐに房総半島へと引き返してしまう。警戒警報が解除され、東京市民が一息ついているとき、10日の午前0時8分、いきなり空襲がはじまった。空襲警報が出るのは、第1弾が投下されてから7分後の午前0時15分だった。つまり、上空から焼夷弾の雨が降りはじめているのに、なんと下町には空襲警報が発令されていなかったのだ。
 東京上空に飛来したのは、334機のB29だった。日本のレーダー(電探)をかく乱するために、アルミ片をばら撒きながら、「ナパーム製高性能焼夷弾」と呼ばれる燃焼性の強い焼夷弾を下町へ投下しつづけた。B29の先発隊は、まず向島区と本所区(現・墨田区)、深川区と城東区(現・江東区)、浅草区と下谷区(現・台東区)の周囲に焼夷弾を集中させて、区内の住民の避難路を断った。それから本隊がつづいて、上記の区のすべてにわたり絨毯爆撃が繰り返された。その空襲法は、明らかに一般市民のジェノサイド(大量虐殺)をねらった攻撃だった。たった一夜の空襲で、東京の下町では10万8千人が死んだ。一家全滅となり確認のしようのない人たちや、行方不明者も加えるとさらに膨大な数字になるだろう。原爆に比べ、この「通常攻撃」によるもうひとつのジェノサイドに焦点を当てられることは多くないが、東京人には関東大震災とともに強烈な記憶として語りつがれてきた。
 下の写真は、焼け野原の東日本橋界隈。このあたりの人々は、下谷・浅草から燃え広がった火災と、本所・深川からの火災に挟撃された。多くの人々は大川(隅田川)端の浜町公園へと逃げたが、そこでは想像だにしえないことが起きた。深川の町を燃やす大きな炎が、火事嵐の強風によって大川(隅田川)を水平にわたってきたのだ。この現象は、関東大震災の陸軍被服廠跡地でも火事竜巻とともに起きているが、浜町公園の川に近い位置に避難していた住民は、あっという間に数秒で焼き殺された。また、コンクリート造りで焼けないと思われていた明治座に避難した数百人とも千人ともいわれる人たちは、100℃以上の高温で“蒸し焼き”にされている。

 わが家では、本所や深川に火の手があがったと同時に、大川や神田川のある柳橋方面へは出ず、すずらん通りを通って日本橋方面へと逃げている。この避難路は混乱をきわめていて、火に追われた人たちは本能的に大きな川のある方角へ逃げるから、反対側から押し寄せてくる群衆と鉢あわせする。だが、大火災の場合、実は川が炎の通り道になること、川の両岸に焼死者が圧倒的に多いことを、家族たちは関東大震災の経験を聞いて知っていた。火災からはなんとか逃れたものの、超低空で繰り返しやってくるB29の機銃掃射に兢々としながら、ようやく10日の朝を迎えることになる。まだ炎上中の地域もあり、すぐには自宅に帰れなかったが、ようやく自宅の焼け跡にもどって蔵の中から発見されたのが、この半分溶けかかった十銭銅貨だった。おそらく、800度はゆうに超えていたのだろう。上の写真で、赤丸に囲まれたところが、親父が通っていた千代田小学校(現・日本橋中学校)。コンクリートの校舎は残ったが、中は丸焼けだった。千代田小学校の左手、写真のやや枠外に戦前のわが家があった。
 東京大空襲などまったく知らない、わたしたちの世代から下でも、この話になると親から聞きつづけてきたエピソードとともに、驚くほど話の通じることがある。「浜町河岸に逃げたんですか?」「いえ、人形町。明治座に行かなくて、ホントよかった」・・・といった具合に、まるで自分たちが体験でもしたように話がエンエンとつづく。祖々父母の世代の関東大震災もそうだし、10年前の阪神大震災でも同様なのだろうが、これが歴史を語りつぐということなのだろう。これらの口承伝承が絶えたとき、その先にくる、なんとも得体の知れない未来こそ、ほんとうに怖れるべきだと思う。

■写真:上は当時の溶けた十銭。正確には純粋な銅貨ではなく、アルミが混入されている。中は、焼けの原の中央を横切っているのが大川(隅田川)、縦に見えている川が竪川だ。隠れていて見えないが、大量の死者を出した明治座と浜町公園が、写真の右手に広がる。本所・深川一帯は丸焼けだが、この大川を水平に炎が日本橋側へとやってきた。下は、浅草・吾妻橋の上空あたりか?

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