前回に紹介した、旧・淀橋区下落合4丁目(現・新宿区中落合4~中井2)の南東側斜面と同じように、中井駅から妙正寺川へと下っていく南斜面も、目白文化村の建築やライフスタイルの影響を色濃く受けている。ロッジ風の西洋館を建てた吉屋信子と、頻繁に行き来をしていた林芙美子は、当時の周囲の様子や風情を次のように述べている。
   ●
 私は冗談に自分の町をムウドンの丘だと云っている。沢山、石の段々のある町で、どの家も庭があって、遠くから眺めると、昼間はムウドンであり、夜はハイデルベルヒのようだ。住めば都で、私もこの下落合には六、七年も腰を落ち着けているがなかなか住みいい処だ。(『わが住む界隈』より)
 上落合から目白寄りの丘の上が、おかしいことに下落合と云って、文化住宅が沢山並んでいた。この下落合と上落合の間を、落合川が流れているのだが、(本当は妙正寺川と云うのかも知れぬ)、この川添いにはまるで並木のように合歓の木が多い。五月頃になると、呆んやりした薄紅の花が房々と咲いて、色々な小鳥が、堰の横の小さい島になった土の上に飛んで来る。(『落合町山川記』より)
   ●
 この文章が書かれた1933年(昭和8)の9月、林芙美子は近くの中野警察に共産党への資金提供容疑で検挙されている。片足を左翼運動に突っ込みながら、もう一方では目白文化村を頻繁に訪れては、裕福な知人のアトリエで盛んにキャンバスに向かっている。
 徐々に戦争へと転がりはじめた暗い世相とは対照的に、第一文化村や第二文化村から拡がりはじめた、明るく開放的な洋風住宅が建ちならぶ風景と、大正デモクラシーの余韻が漂う、それまでには見られなかった闊達で新しいライフスタイルへの憧れは、東京じゅうから実に多くの人々を落合の丘へと惹きつけることになった。つづきは・・・

「目白文化村」サイト Click!
■写真:左は、二の坂の途中にある昭和初期の洋風住宅。右は、目白文化村の知人宅アトリエでキャンバスに向かう1933年(昭和8)の林芙美子。洋館の窓外や着物の風情からみて夏らしく、逮捕直前の姿と思われる。