下落合界隈や「目白文化村」周辺の資料を漁っていると、どう考えてもおかしな記述にぶち当たることがある。わたしがいちばん混乱したのが、下落合の地名「不動谷」についての記録だ。下落合関連の資料にも登場するのだが、目白文化村関係の資料にも頻繁に現れる。でも、話のつじつまがまったく合わず、相互に矛盾してしまいわけがわからないのだ。
 その記載された内容のとおりに解釈すると、下落合の「不動谷」はあちこちへとフラフラ動きまわっていることになる。そんなことはありえないので、誰かがどこかで勘違いしたか、あるいは、なにかが少しずつ間違ってしまったのだ。
 最初、おかしな記述に気がついたのは、以前にも触れたが『目白文化村』(日本経済評論社)の開発地域を説明する文章(P64)からだった。
   ●
 第一文化村は不動谷と呼ばれる地域を開発したものである。(略) ここは落合台地の尾根筋にあたり、昔は所々に湧き水が湧いたといわれ、一九二一年の実測図でその地形を眺めると、高田馬場へと至るかつての主要道路の裏手には溜池が描かれている。その椎名町寄りの『不動谷』と書かれた一画、ここが目白第一文化村の場所である。
   ●
 下落合の地勢をご存じない方が読まれても、「おや?」と思われるだろう。「落合台地の尾根筋」が、なんで「不動谷」なんて呼ばれるんだ?…という単純な疑問。もうひとつ、「椎名町寄り」に不動谷と書かれた一画…というところだ。第一文化村のある一画に「不動谷」と書かれた地図(絵図)は、江戸期から明治、大正、昭和にかけて、わたしの知りうる限り1枚も存在していない。内務省地理局測量課が作成した1921年(大正10)の「実測図」には、第一文化村の上にはすでに堤康二郎が名づけた目白文化村の初期名「不動園」という文字が記載されている。
 不動谷は、その歴史経緯も含め、どう考えても現在の聖母病院のある谷間であって、目白文化村の尾根筋は「前谷戸」、つまり前面に「谷戸」(低湿地/谷間)のある地域…という意味を含む尾根筋の地名だ。新宿区の資料から、聖母坂から西坂の尾根筋が通う東側あたりの低地が、その昔「不動谷」と呼ばれていたという記憶もあったから、よけい不可解に感じたのだろう。おかしいおかしいと思いながら、文化村の取材が手いっぱいで、なかなか落ち着いて調べることができなかった。各時代の下落合地図も取り寄せてそろい、ようやくじっくり比較してみる機会もできた。
 検証の結果、「不動谷」は時代とともにフラフラと動いているのだ。もう、いっそのこと「動谷」と呼んだほうがいいかもしれない。その動きは、時代とともに西へ西へと移動している。やがて、字(あざな)がふられたときは、すでに誤った谷間へと「移動」したあとだった。では、さまよえる不動谷Click!の動きを、江戸→明治→大正→昭和と順に追ってみよう。

■写真:「不動谷」の動き。聖母坂から落一小の下まで、約400メートルも“移動”している。