竹田助雄・著の『御禁止山-私の落合町山川記-』、下落合(中落合・中井も含む)や目白を語るうえでは欠かせない、いわずと知れたバイブル的な存在が本書だ。「落合新聞」を主宰していた方としても有名だが、戦後、東邦生命→三井不動産→大蔵省と所有が移った、将軍家の鷹狩り場である御留山、さらに旧・相馬伯爵邸の庭園となっていた南半分の区画を丸ごと保存するために東奔西走し、ついに1969年(昭和44)に「新宿区立おとめ山公園」として後世に残す仕事をした。
 本書は、「落合秘境」の“発見”から公園化にいたるまでの、ほぼ全過程を記録したルポルタージュ兼自伝のような内容となっている。これだけ御留山の保存に尽力したにもかかわらず、最後は区議会議員の“お手柄”として横取りされていく過程は読んでいてつらいが、「落合新聞」(全50号)を発行していた関係で“敵”も多かったらしい。もっともわたしは、“敵”のいないジャーナリズムこそ不気味だと思うのだが・・・。新宿区が発行する「おとめ山公園」についての資料記述にも、彼の名前はもはや登場しない。
 竹田助雄氏(1921~1987)は、小学校低学年のときに下落合へ引っ越してきて以来、途中で落合町内での転居はあるものの、亡くなるまでこの土地を愛して住みつづけた。目白文化村との関わりも深く、文化村内に住んでいた文学者たちとも交流があったようだ。戦後は、ずっと第一文化村の北、旧・府営住宅のあったあたりに住み、製版会社を経営するかたわら「落合新聞」を発行して、主要新聞の折り込みにより無償配布しつづけた。その活動は、落合遺跡の発掘や下落合横穴古墳群の記録、下落合にあった本田宗一郎の仮邸をはじめとする児童公園化、下落合の町名変更問題(中落合・中井地区)、放射7号線問題など、実に多岐におよんでいる。
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 山手線に乗って高田馬場駅を過ぎると、前方、左に御禁止山、右に学習院のまっ黒な森が迫ってくる。蒼林は台地の東西にこれが都会の眺めかと見まがうように重々として展がっている。世界に誇れる風景が地から湧き上ったように出現していたわけだ。こんな素晴らしい展望を都心に期待できたとしたら・・・市民はここに来て憩うだろう。(中略) いまからでも遅くはない、緑地はまだいたるところに残っていた。(『御禁止山』より)
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 この文章の「御禁止山」を、旧遠藤邸の「タヌキ山」と呼びかえたとしても、そのまま現在に通用してしまう。最初は「夢想」にすぎなかった御留山の保存が、つぎつぎと協力者を得て実現していく過程はすばらしい。ついには、当時の蔵相だった目白台の田中角栄邸にまで出かけていくのだが、それら一連の保存運動自体が面白いのではない。さまざまな人間模様を織り込みながら、下落合の歴史が刻まれていく、まさにその現場に居合わせ実際に立ち合っているような感覚をおぼえるところが、もともと文学を志していた竹田氏の文章力の秀逸さなのだろう。
 1982年に出版された本書が、絶版になってから久しい。どこかで文庫化して、再版してはくれないものだろうか? ちなみに、「目白文化村」シリーズで参照している、箱根土地が1925年(大正10)に作成した「目白文化村分譲地地割図」も、竹田氏が発見して「落合新聞」に掲載したものだ。わたしは今でも、竹田氏のお世話になりつづけているわけだ。

■写真上:左は2005年の御留山、右は1962年(昭和37)の同所
■写真下:左は『御禁止山-私の落合町山川記-』竹田助雄(1982年/創樹社)、右は竹田氏が活躍した落合新聞社+製版所。愛用のスクーターが見られないのは寂しい。