若山牧水(1885~1928)は東京へ出たてのころ、下宿と早稲田大学とを往復するだけで、あとは緊張からかほとんど下宿で「引きこもり」のような生活を送っていたようだ。それが、ふとしたきっかけから戸山ヶ原の広大な原野を“発見”し、そこを散策するにつれて「引きこもり」生活から解放されてゆく。戸山ヶ原につづき、足をのばして今度は目白から下落合を散歩する、いや当時はハイキングするようになる。
 『若山牧水全集』第7巻(雄鶏社/1958年)に収められた「東京の郊外を想ふ」には、そんな下落合の情景が具体的に登場する。おそらく、大正2~3年ごろの下落合の風景で、ちょっと長いが引用してみよう。

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 そして目白橋を渡つて、左折、近衞公のお邸に行き當つて右折、一二町もゆくととろゝゝとした下り坂になつた其處の窪地全體が落合遊園地といふものになつてゐた。それこそ誰も知らない遊園地で、窪地の四方をば柔かな雜木林がとり圍み、中には小さな池があり、池の中の築山には東屋なども出來てゐた。
 また、遊園地に入らずにその入口の處から左に折れてゆく下り坂があつた。其處もほそ長い窪地になつてゐて、いろゝゝな雜木のなかに二三本の朴の木が立ち混り、夏の初めなどあの大きな白い花が葉がくれに匂つてゐたものである。降りきつた右手の所に、藤の古木があるので藤稻荷と呼ばれてゐる稻荷の祠があつた。(今でもこれはあるだらう。) その境内も一寸した高みになつてゐた。其處から丘づたひに左は林右は畑といふ處を歩いたのもいゝ氣持であつた。そして此處の丘にはこの邊に珍しい松の木立があつた。ほんのばらばらとした小さなものであつたが、東京の北から東にかけての郊外では全く珍しいものであつた。今は稻荷の側からかけて幾軒かの大きな別莊になつてゐたとおもふ。
 その丘を降りた所に氷川神社といふがあり、神社の境内に小さな茶店などの出てゐる事もあつた。もう少し歩かうとそのまゝ丘に添うて西北へゆく。
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 まさに、現在の御留山付近の情景が描かれている。「誰も知らない遊園地」という表現が面白く、“落合秘境”という言葉を想い起させる。この池のあった「遊園地」は御留山ではなく、尾根筋にあった「谷戸」地形の一画(のちの「林泉園」)だ。いまでは、低層マンションが谷間を埋めている。また、氷川明神社に茶店が出ていたとは知らなかったが、それとは対象的にここでも藤(森)稲荷の影は薄い。戦後もしばらくは荒れるにまかせていたようだが、大正期にも荒廃は進んでいたのかもしれない。
 さて、気晴らしにハイキングをした若山牧水お気に入りの下落合コースClick!を、当時の地図をもとにいま一度たどってみよう。

■写真上:左は現在、右は戦後すぐの藤(森)稲荷。牧水が歩いたころから荒れていたようだ。
■写真下:牧水が「引きこもり」を脱し、下落合ハイキングのきっかけとなった明治末の戸山ヶ原。

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