春うらら、先日、神田川のサクラ並木へ寄ってきた。相変わらず、見事なサクラのゲートが面影橋あたりから江戸川橋までつづいていた。いま、神田川の花見といえば、遊歩道がかようこの界隈なのだが、江戸期から明治にかけてはもう少し下流域が花見の舞台だった。ちょうど、小石川/小日向丘陵の前から大曲(おおまがり)あたりにかけての流域だ。
 椿山の下にある大洗堰(大滝橋)までは神田上水と呼ばれ、舟を浮かべるのはおろか、水に入るのも魚を採るのも禁止されていた。小石川上水、神田上水、しばらくして玉川上水、千川上水・・・と、大江戸は井戸ではなく山手から本所・深川まで92mの落差を利用した、ほぼ100%の水道(すいど)都市だったのだ。町場には防火用の井戸は掘られたが、埋め立て地が多いから井戸水はしょっぱくて飲めなかった。当時、上水道が完備した都市は、世界でも大江戸とロンドンの2都市しかない。
 椿山下にあった大洗堰の手前から分岐した水道は、ほぼ開渠のまま水道町(すいどちょう)の北側を通って、水戸藩上屋敷(後楽園)へと貫けて暗渠となり、外濠をわたる水道橋(すいどばし)で再び開渠となったあと、千代田城へと引きこまれていた。大江戸が東京になってからも、この水道網はそのまま使われつづけ、木製ではなく金属の水道管に敷設しなおされるのは明治も末になってからのことだ。だから、神田上水は明治期の半ばまでそのまま活用され、舟を浮かべての花見は大洗堰から下流、当時は江戸川と呼ばれた川筋だけに許可されていた。ちょうど、江戸川橋~舩河原橋の間の川面だ。

 でも、いまでは江戸川橋から飯田橋まで高速道路が川面をふさぎ、花見の名所だったサクラ並木などなくなってしまった。そのかわり、旧・神田上水の大洗堰から川上が、見事なサクラ並木となっている。川に棲みつくカモやセキレイ、巨大なカメやコイなどを眺めるだけで、猪牙を浮かべられないのがなんとも残念だ。

■写真上:左は満開の面影橋あたり、右は明治中期の江戸川(神田川)花見。大曲の少し上、中之橋あたりの川面。コンクリートによる護岸工事がされておらず、江戸期の面影そのままだ。
■写真下:肥後藩下屋敷(新江戸川公園)の湧水池。よく見るとサクラにシラサギがとまっている。