この「目白文化村」シリーズでは、文化村の街並みや地勢を説明するのに、1947年(昭和22)に米軍のB29から、おそらくは爆撃の効果確認用に撮影された空中写真を用いてきた。ところが、戦後すぐの空中写真ではなく、昭和初期(1936年)に旧・陸軍の航空隊によって、おそらく測量用に撮影された写真が存在することを知った。たぶん、現存する目白・下落合地区の空中写真の中で、これがいちばん最初のものだと思われる。
 さっそく防衛庁の資料を確認したところ、8×10インチ(エイトバイテン)のネガで残っていることがわかった。先の米軍機が撮影した空中写真とは異なり、この写真類は残念ながら全点がデジタルデータ化されていない。したがって、大判のプリントに焼いてもらうことにし、そこからデジタルデータへ変換することにした。空中撮影の標定図とにらめっこしながら、撮影ポイントをひとつひとつ特定していく作業はわずらわしかったが、ちょうどうれしいことに、目白/下落合上空・上落合上空・目白文化村上空が現存していた。旧・陸軍の航空隊の飛行コースでいうと、南北の方向へ往復しているB-8コースの10・38・39各ポイント上空だ。
 プリントを依頼し、ワクワクしながら到着を待つ。送られてきたプリントを見ると、はたしてわたしは狂喜してしまった。空襲で焼ける前、山手通りの工事もいまだ始まっておらず、元・箱根土地の本社社屋がそのままの姿で建ち(当時は中央生命保険互助会社)、第一から第四までの目白文化村の全貌が眼下に拡がっていたからだ。まさに、佐伯祐三の視線がとらえた、「下落合風景」の時代そのままの姿だ。
 建物と建物との間のスペースがゆったりととられ、ライト風建築の大きなK邸、第1次引っ越しで山手通りの下になってしまった会津八一邸、戦災で焼けてしまった第2次引っ越しの秋艸堂、ポーチが美しかったN邸、旧・安倍能成邸・・・などなど、大正期の文化村開発時からの姿がはっきりと見てとれる。しゃれた西洋館、あるいは大正期には最先端だった和洋折衷のハイカラ“文化住宅”が拡がる街の風情は、地上を散策すればいったいどのようなものだったのか・・・。眼下の文化村全体の眺めは、さまざまな想像をかきたててくれる。
 では、文化村の空中写真を個別に拡大して見てみよう。もし時間があれば、「目白文化村」シリーズの各本文ページと照らし合わせてご覧いただければ、よりイメージが鮮明になるかもしれない。

第一文化村上空 Click!
第二文化村上空 Click!
第三文化村上空 Click!
第四文化村上空 Click!

「目白文化村」サイト Click!