「黒門」というと、東京の“町場”では下谷広小路を不忍池方向へまっつぐ行った突き当たり、忍川の三橋を超えたところにあった上野寛永寺の「黒門」がまず思い浮かぶ。上野黒門町も有名だ。だが、山手の下落合では真っ先に、別の「黒門」が想起されるのだ。わたしは、旧・相馬邸(現・おとめ山公園とその周辺)の「黒門」の写真を、もうずいぶん以前から探しつづけているのだが、どうしても見つからなかった。探しはじめてから、すでに15年ほどにもなるだろうか?
 ところが、当時から下落合にお住まいの長谷部進之亟氏が写生された、「黒門」の精密で見事なイラストを、ついに手に入れることができた。最近、「おとめ山の自然を守る会」の松尾徳三様から、わたしの手元へいただいたものだ。『落合新聞』の竹田助雄氏の時代から、「幻の黒門」といわれて久しいが、ついにその姿を目にすることができた。
 おとめ山公園とその周辺は、明治期には近衛邸、大正期から戦後すぐにかけては将門相馬順胤・猛胤子爵邸の敷地だった。下総の平将門に由来する相馬家は江戸時代、野馬追いで知られる相馬中村6万石の元・譜代大名家だ。大正初期に、近衛邸敷地の南半分を譲り受けるようなかたちで、下落合の御留山に引っ越してきている。また、順胤の三男である正胤が、西落合に相馬ジャムを起業し、「アマリリスジャム」を販売していたのは有名だ。その広大な屋敷は、周辺に住む住民へ近衛家以上に強烈な印象を残しているが、中でも相馬邸の正門である「黒門」の姿は、強く目に焼きつけられたようだ。
 当時の「黒門」の様子を、竹田助雄の文章から引用してみよう。
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 相馬邸は、少年の私にはおどろくほど広かった。
 子供の頃、相馬邸へ表門から入ったことがある。秋祭りのときだった。表門は黒門と呼ばれ、これも少年の私にはびっくり仰天するほど巨大だった。四角いまっ黒な門柱は大人のふた抱えもありそうに見えた。柱は後ろの支柱と合わせて四本で、前面の巨大な柱を閂で支えていた。
 金具を嵌めた頑丈な扉、金具の中には、唐金擬宝珠という両扉の高いところの一対は、家紋ではなかったかと思う。高い屋根瓦。威厳を示す殿さまの構えである。門の左右は瓦葺の築地塀が長くつづいていた。
 片袖門であることは後に知った。外様※の場合、十万石以上は両袖、以下は片袖を用いる。(『御禁止山-私の落合町山川記-』より)
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 ※竹田助雄は「外様」と書いているが、相馬家は外様から譜代格へ、そして1684年(貞享元)には正式に譜代となり、以降幕末まで譜代大名家に名を連ねていた。片袖門だったのは、十万石に満たないせいだったと思われる。(その後、譜代大名の格式ならば5万石以上は両袖門だったはずで、もともと相馬藩の門ではないとの可能性も指摘Click!されている。さらに、片袖を落とした相馬邸上屋敷の表門そのものだった可能性もある)

 この「黒門」は戦後、御留山の敷地が相馬家から太田清蔵(東邦生命)へ移行するとほどなく、九州の福岡県へ移築するために解体されている。太田清蔵という人は、江戸に建てられた大名屋敷の「黒門マニア」らしく、やはり福岡の香椎中学校へ旧・南部藩江戸屋敷の「黒門」を解体し、1943年(昭和18)に移築・寄贈している。相馬邸の「黒門」は、結果的に取り返しのつかない移築となった。九州地方を直撃した台風により、全壊したと伝えられている。頑丈な門が壊れるぐらいの被害とは、いったい「黒門」をどのような環境へ移築したのだろうか?
★その後の「黒門」のゆくえは、こちらClick!へ。
 

 竹田助雄氏の文章にもあるが、氷川明神の祭日には「黒門」は開放され、氏子のかつぐ神輿は邸内へと入れた。庭先の卓台には、大人には清酒やつまみ、子供にはサイダーや菓子、フルーツが用意されて、みんなにふるまわれたようだ。新宿歴史博物館が採集した資料(新宿区の民俗)には、相馬家の祭りへの寄付額が少ないのに怒った氏子たちが、「黒門」から樽神輿をかついだまま玄関へ突入して、打ち壊し(ぶちこわし)に近い状況になってしまったエピソードが残されている。

■イラスト上:ありし日の御留山・相馬邸「黒門」。(作画・長谷部進之亟氏)
■写真中:10万石以上の「両袖」門の大名屋敷例。現在の日比谷公園にあった佐賀藩35万石、鍋島家上屋敷の赤門。広重『名所江戸百景』第3景の「山下町日比谷外さくら田」より。(部分)
■写真下:左は、1936年(昭和11)の相馬邸上空。大きな「黒門」がはっきりと捉えられている。右は戦後、1947年(昭和22)ごろの相馬邸跡地。東邦生命の所有地になっており、すでに「黒門」の姿は見えない。