1931年(昭和6)の「満州事変」、および翌年の「満州国」設立に始まった日中戦争は、大正デモクラシズムのただ中に開発され、自由闊達なムードがただよった目白文化村にも、少しずつ暗い影を落としていった。早くも1928年(昭和3)3月15日には、文化村の周辺に住んでいたいわゆるプロレタリア作家が、特高警察によっていっせいに検挙・拘束されている。(3・15事件)
 その後、共産党関連の小説家や評論家たちばかりでなく、文化村界隈のリベラリストやアナーキスト、民主主義者、自由主義者にいたるまでがファシズムの嵐の中で弾圧されていった。1933年(昭和8)には旧・下落合4丁目の林芙美子が中野署に逮捕拘留、同年、隣接する上落合へ一時期逗留していた小林多喜二は築地署に逮捕され、「転向」を拒否してその日のうちに虐殺されている。当時、林芙美子は29歳、小林多喜二もわずか29歳と4ヶ月だった。
 

 1937年(昭和12)に防空法が施行されると、目白文化村とその周辺では大規模な防空演習が行われている。「銃後の備えはよいか?」などのポスターが、街中に目立つようになったころだ。やがて、1941年(昭和16)に太平洋戦争が始まり、目白文化村でも物資不足はかなり深刻になった。新宿歴史博物館に残る文化村の回覧板には、塩や砂糖といった基本調味料から、数多くの食料品が配給制となっていたのがわかる。住民たちは官憲の目をかすめて、次々と東京近郊へ米や野菜の買出しに出かけていった。
 

 サイパン島が陥落して、米軍の日本本土爆撃が決定的になると、文化村の住民たちはつてを頼って疎開を始めている。しかし、会津八一の項Click!でも書いたように、膨大な家財や蔵書、美術品などをいっぺんに運べるトラックの手配などできるはずもなく、ほんとうに貴重な一部だけを大八車に積んで、ようやっと目白駅まで運んだという記録が見えている。また、女性や子供を優先的に疎開させ、家財を運び出せない屋敷は男のみが残って守ることになった。文化村から女性の姿が消えたのは、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲あたりからだ。

 そして、同年4月13日の夜半、目白文化村はB29の焼夷弾攻撃Click!により、全体の3分の2を焼失することになる。
★その後、第一文化村と第二文化村は4月13日夜半と、5月25日夜半の二度にわたる空襲により延焼していることが新たに判明Click!した。

■写真上:出征兵士の見送り。ちょうど二ノ坂下あたりの光景だ。(方向①) 背景の丘上右手が、第二文化村あたり。
■写真中:左は、落合尋常高等小学校(落一小)で開かれた「国防婦人会」総会の記念写真。(方向②) 文化村からも、多くの人たちが出席しているはずだ。右は、中井駅前の「千人針」。死線(4銭)を超えるという迷信から、5銭玉を中に縫いこむことが多かった。(ポイント③)
■写真下:左は、中井駅の防空演習。正面の建物が当時の中井駅舎。(ポイント④) 右は、空襲後の中井駅周辺。上落合側から中井駅方向を望む。(方向⑤) 遠景の緑の丘が、旧・下落合4丁目のバッケ。(『おちあいよろず写真館』より)
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