法よりも倫理よりも愛でしょ、愛
『ヴェラ・ドレイク』(マイク・リー監督/フランス・イギリス・ニュージーランド合作/2004年)

 労働者階級の人びとを描いたイギリス映画にはハズレがない。ごぞんじケン・ローチと、このマイク・リーの監督作品は笑うところがなくても、独特のユーモアがある。
 とりわけマイク・リーの作品は、俳優が個性的。みなさんユニークな顔立ちや服装、ヘアスタイルなので、ステレオタイプの美形を並べたハリウッドの群衆モノのように「この人、誰だっけ?」という混乱がない。オジサンもオバサンもキャラが立っている、と書いていて『オバサン刑事』とかいう二時間ドラマのシリーズを思い出した。市原悦子が刑事で、夫役の蛭子能収は売れないポルノ作家という設定なのだが、マイク・リー作品のキャスティングを日本人でやると、こんな感じ。地味な俳優が必ずどこかの場面で、驚くべき輝きを放ち、観客を魅了してしまうのである。
 夫や義弟からダイヤモンドの心の持ち主と称されるヴェラ・ドレイクは家政婦(かぶりますね、市原悦子)の仕事をしながら、近所の老人を見舞ったり、独り者の男を夕食に招いたりする善良で親切な主婦。息子の病気というアクシデントが家族を結ばせた前作『人生は、時々晴れ』のエンディングから幕を開けたような今作、平和であたたかな―ひとつ間違えば退屈きわまりない―家族の話? と、ちょっと引いたあたりから物語が展開する。ヴェラの親切な行為のなかには実はとんでもなく危険で、違法なことが潜んでいたからだ。
 時は1950年、キリスト教の国イギリスの話である。アメリカでも『21グラム』や『ミリオンダラー・ベイビー』のように神への疑問を投げかける映画が増えているが、その背徳行為によって刑事が訪ねてくるのがクリスマスの食卓を囲んだとき、という何とも……なタイミング。罪を認めたヴェラは、法の専門家によって裁かれ、刑を課せられるが、これ、いまの時代のアメリカの陪審員制度だと、州にもよるだろうが、かなりの確率で無罪放免されるに違いない。

 話をそらすが、この陪審員制度、日本でも採り入れられるようだが、いったい何を考えてるんだか。『12人の優しい日本人』を例に挙げるまでもなく、日本ってば「隣りの人と同じでいいです」が自分の意見としてまかり通る国ですよ、冷静な判断なんかできっこない。いまからでも遅くない、あれは止めたほうがいい。
 さてプレスリリースにしつこく書かれているように、この映画は善悪を問うものではない。100%信頼していた妻の、母の、背徳行為を知ったとき、夫や子どもたちはどうするのか、って話。日本的にいえば、世間に申し訳ない身内は口を閉ざすしかないなか、これから家族になろうというエディ・マーサン(『21グラム』で、ベニチオ・デル・トロが通う教会の牧師役)の象徴的なセリフ「ヴェラ、ありがとう。いままででいちばんすばらしいクリスマスだ」に結実するのだが、この美しい魂のありようには、ヴェラの夫スタンの深すぎる妻への信頼とともに、泣かされる。
 なぜなら勧善懲悪の構造ではないとしながらも、映画にはヴェラに代わって裁かれるべき<悪玉>がいるのだ。アメリカ映画なら、最後に懲らしめを受けるはずの悪玉は、その罪を言及されない。なんで? これって罪に問われないの? と見ているこちらが思いはじめると、画面から悪玉は消えてしまう。つまり登場させないことでより強いインパクトを与えつつ、非難はしない。マイク・リーの真骨頂である。                                             負け犬

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●7月9日(土)~ 銀座テアトルシネマ

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