最近、情報システムの分野では「ミーム(meme)理論」が、ことさら注目を集めている。「ミーム」とは、生物学者リチャード・ドーキンスが書いた、『利己的な遺伝子』(1976年)に登場した仮説の用語だ。日本でも、竹内久美子の著作などでお馴染みの方が多いのではないだろうか。人間は、遺伝子のみで進化をしていくのではなく、文化の模倣と継続によって形成される「文化遺伝子」が存在するのではないか?・・・と考え、ドーキンスはそれに「ミーム」と名づけた。
 ITの世界では、たとえば上流~下流開発での煩雑な要求定義に対する、システムへの反映・消化がとても難しい。業務の内容を細かく取材し、それをコンピュータによってシステム化するには、膨大な時間とコストを要してしまうのは、今も昔も変わらない。それを丁寧に・・・というかモタモタやっていると、カットオーバー(開発終了)を迎えたころには、とうの昔に時代遅れのシステムになってしまっている。いまの「電子政府」(e-Japan)計画や「教育の情報化」(e-School)が、もっとも端的かつ格好の事例だ。巨費を投じてシステム化してはみたけれど、使いものにならないので廃棄した・・・なんてニュースは、企業レベルではいまやまったく珍しくなくなった。
 この現象は、大なり小なり仕方がないと言えばいえる。生きて日々活動し、変化と進化を繰り返す人間社会と、自律して進化することが不可能なITシステムとの断絶は、将来的にはその距離がかなり縮まることはあるかもしれないが、本質的にどこまでいっても埋まらない。でも、世の中には巨大なシステムであっても、実にうまく機能しえているケースもあったりするのだ。それは、どこがどう違うのか・・・? 調べてみると、導入したITシステムが特に優れているわけでもなく、それを運用する人間が、システムでは補いきれない部分を「暗黙知」として仲間と広く共有し、独特のルールや慣習を作って適用・浸透させてたりする。つまり、人が入れ替わろうが、社屋が移転しようが、OSやアプリケーションが変わろうが、次々とこの「暗黙知」が先輩から後輩へと受け継がれていくから、組織やプロジェクトとしての全体最適化(トータル・ソリューション)が崩れないのだ。このような「ふるまい」を実現する要因に、「ミーム理論」が当てはめられるのではないか?・・・ということになる。いまやIT分野では、「ミームを考える会」なんて組織も存在している。
 この考え方を、システムとはまったく異なる、共同体としての「街」というテーマで置き換えてみよう。日本橋でも下落合でもいいけれど、ある街が存在して、そこに住む人々により独自のアイデンティティや風情、街を支える方法論が形成され、受け継がれてきた。だから、そこへ新たに移り住んだり、新たな建物を建てたりする人たちは「朱に交われば」ではないけれど、それらを尊重する姿勢を見せてきた。できるだけ、街の風情や人情(人の思い)を壊さずスムーズに溶けこもうとし、大震災など大規模災害時には危険をできるだけ回避しようと・・・。この「暗黙知」(当然、街の成立や歴史を知らないと獲得できない=または、先達が身近にいないと伝承できない)は、下町・山手に関係なく連綿と存在している。これが、街の「ミーム(文化遺伝子)」だろう。街ではなく、「東京」という地域でもいい。ところが、この遺伝子をまったく持たない人間が、特に1980年代ぐらいから続々と登場してくる。
  

 「この一画を地上げして、効率のいい40階建ての高層マンションを建てようぜ(どーせ、オレの故郷じゃないし)」と、どこかの誰かがカネをばらまいて計画したとする。この時点で、その街に住みつづけてきた人間と、そうではない人間との間に、埋めようのない断絶が生まれる。そして、全体で独自に「自律」し最適化されていた街は、新たな変化とともに「共進化(同調進化)」することなく(「暗黙知」が伝承されることもなく)、そこかしこで分断され、あげくのはてはひとつの街として成立しえないほど、機能が失われ荒廃していく。全体最適が部分最適となり、ついには個別なローカルルールとなって街としての機能自体が停止してしまう。システムなら、とっとと廃棄してリニューアルを考えればいいが、分断化され荒廃したとはいえ、街や建物は廃棄できない。だから、そんな荒廃に嫌気がさした濃い「ミーム」を持つ人々は、自分の街とは異なるとはいえ、きちんと「ミーム」が伝承され息づいている街へと移転していく・・・。最近の東京のありさまは、各地でこんな情景の繰り返しばかりだ。高層マンションが林立して人が大勢住んでいても、とうにハングアップして機能が停止し「死んでる街」が多く存在している。
 ゼネコンに「ミーム(文化遺伝子)」を持てといっても不可能だろうが、おかしなことに街の風情を一変させて打(ぶ)ち壊し、人情(人の思い)を無視しておきながら、マンションの売り出しチラシなどを見ると、「江戸から連綿と受け継がれた伝統のある・・・」とか「由緒ある山手の閑静な高台に・・・」とかいった、ことさら「ミーム」用語を連発してたりするから滑稽だ。それを片っぱしから壊しておきながら逆に謳いあげる、救いようのないバカバカしさ。
 まず、そこへ住もう、あるいは何かを建てようと思った際、「そこはどのような街なのか?」を意識の俎上にのせることが、「ミーム」獲得の第一歩なのだろう。せめて、自分の住む街、あるいは自分たちが手をつけようとする街の成り立ちぐらいは知って、それに見合った暮らしや意匠を想定しても、決して損はないと思う。ましてや、なにを「やってはいけない」のかをわきまえるべき、文化的・環境的な視座を持つのは、もはやあたりまえの時代となりつつあるのだ。

下落合みどりトラスト基金

■写真上:左から下落合、雑司ヶ谷、麻布の街角。
■写真下:左から両国、戸塚、蔵前の街角。