下落合を舞台にしたドラマや映画はいくつもあるが、いちばん印象に残っている映画は、小津安二郎監督の『お茶漬の味』(1952年/昭和27)かもしれない。なぜ印象深いかというと、わたしが子供時代をすごした懐かしい大磯と、いま住んでいる下落合の双方が舞台として登場するからだ。
 ドラマ『さよなら・今日は』(1974年/昭和49)Click!とは異なり、『お茶漬の味』には下落合の風景はほとんど登場しない。山手を象徴するような、巨木や森のカット、給水塔などが時おり挿入されたりするだけ。昭和20年代、米空軍のB17爆撃機(B29ではないところが珍しい)が並んでいる羽田空港や、銀座、日比谷、大磯、箱根などは実景が登場するのだが、なぜか肝心の下落合の街並みは出てこない。ほとんどがスタジオのセット撮影なのだ。
 でも、舞台となる家のセットが、いかにも下落合界隈にありそうな、和洋折衷の山手住宅なのが面白い。物語は、東京・山手のお嬢さま(木暮実千代)と結婚した下町の男・・・と書きたいのだが、亭主は都外出身のざっかけない(気取らない)暮らしが染みついた男(佐分利信)とによるホームドラマ。妻の妙子は、佐伯祐三と同時期にパリですごした、当時流行の東郷青児の油絵がかかる、目白文化村をそこはかとなく連想させるシャンデリアの下がった洋間で暮らし、夫の茂吉(名前からして奥さんは気に入らないかも)は、まるで学生下宿のような簾の下がった、濡れ縁のある日本間で暮らしている。実際に下落合へ屋敷を建てたとき、書生部屋として設計された部屋なのかもしれない。もう、このシチュエーションだけで、ふたりの趣味から性格までが不一致であるのがわかる。要するに、いま風にいえば家庭内離婚をしている夫婦・・・と書いても差しつかえないだろう。
 夫の世話は女中にまかせて、旅行に観劇にショッピングにと、妻は遊びまわっているのだ。ふたりの間に挟まって、いつも気の毒そうな顔で登場する、女中のヨネ(小園蓉子)の暗い表情がいい。最後のシーンで、台所に隣接した女中部屋から、ヨネの声高な寝言や高イビキが聞こえてくるのだが、普段から夫婦の板ばさみになり、ほとほと疲れてストレスがたまっているのだろう。映画では、そこまで細かくは描かれていないけれど・・・。
 とにかく、妻の妙子は気位が高く、貧乏くさいことが大嫌いな、とびきり気の強い女なのだ。タバコの銘柄(朝日)にまでケチをつけて、もっと品のいいタバコを吸えなどと言ったりする。どうやら、大磯に別邸を持つほどの、おカネ持ちの家に育ったらしい。それに比べて、夫はしがないサラリーマンで小遣いも少なく、パチンコや競輪で時間をつぶすのが趣味のような、ちょっと情けない男。もともとは復員兵のようだから、平和な日常生活や戦後の時間に、死んだ戦友のことなどを思い出しつつ、どこか空しさや寂寥感をおぼえてしまうのかもしれない。いつも妻の剣幕に気圧されて、納得できないことでもなんとなく同意してしまい、ジッと嵐が通りすぎるのを待っている。
(「辛くあたりすぎたかしら」と反省・・・してないな)
 木暮実千代が演じる、「典型的」な東京・山手の女性。この「典型的」は、下町は深川育ちの小津安二郎から見た山手女性の「典型」であって、実際の山手女性が妙子像に普遍化できるかというと・・・、やっぱりできるのだ。(爆!) 同じ下町の性(しょう)のわたしから見ると、実際にはもう少し山手の独特な優しさや、細やかさがあるようにも思えるのだが、おしなべて大なり小なりこういう感じに映る。そして、理不尽なほど叱られるところがまたゾクゾクとして嬉しく、マゾヒスティツクな楽しみもあったりする。(文楽のガブ好みにも通じるのか) こういう女性を、どのようにうまく扱い、無事、着地点へと「誘導・マネージメント」していくかの手腕が、江戸東京で産まれた町場の男としての甲斐性であり生き甲斐だ・・・という感覚。
 東京の甲斐性なしとは、稼ぎが少なく遊んでばかりいる男のことではない。亭主に稼ぎなんぞなくても、女房が気持ちのいい生活を送れてさえいれば、なんのかのとケンカはするかもしれないが家庭は円満・安泰でうまくいくのだ。おそらく日本でもっとも強力な江戸東京の女性(下町山手を問わず(^^;)を、どのように“治め”ていけるか、ひいては“家内”を平安に保てるかどうかが、男の甲斐性であり、その手腕にかかっているといえる。
 下町育ちの男は、とても気が短い。だが、その気の短さは、わりと他人に対してのことが多い。自分の身内、特に連れ合いに対しては非常に辛抱強く、相手を立てて意外なほど“甘い”例が多いのだ。そう、どれほど食い物にうるさく、マズイものを食わせた見世とは必ずケンカをして「二度と来てやるもんか!」とタンカを切るような性格でも、こと「お茶漬」にだけはつい気を許してしまう食いしん坊に、どこか似ている。
 小津監督が、あえて下町男ではなく、都外出身のひたすら我慢強い男を登場させたのは、女房をうまく“治め”きれないところで、山手女性の妙子(木暮実千代)に思う存分攻め込ませてみたかったんじゃなかろうか・・・そんな気さえするのだ。そこで、ハナからうまく“治め”られてしまっては、2時間近くのストーリーが持ちはしないだろう。

■写真:『お茶漬の味』の妙子の部屋。出演はほかに笠智衆、淡島千景、津島恵子、三宅邦子、鶴田浩二、柳永二郎、十朱久雄、望月優子、設楽幸嗣、北原三枝ほか。