相模国(神奈川県)の平塚市、駅にほど近い公園に「お菊塚」がある。実際の墓は、同市内の寺院にちゃんとあるのだが、最初に栴檀(せんだん)の木を植えて墓標としたのがこの場所だったらしい。昔、この公園で遊んだことがあるので、お菊塚の印象はかなり鮮明だ。いまの大きくて立派な墓碑とは異なり、バスケットボールぐらいの石が地面に半分ほど顔を出していて、刻銘がすでに読み取れないほど風化していた。1952年(昭和27)に石碑が建立されたことになっているが、いまの石碑は新しく、わたしが見なれた小さな石が初代碑なのかもしれない。
 ・・・ということで、第四夜は「番町更屋敷」。お菊さんは、平塚の宿場役人・真壁源右衛門の娘に生まれた。当時、相模の街道筋では、娘を江戸の屋敷奉公へと出し、行儀見習いをさせるのが流行りだったようで、湘南ガールのお菊さんも牛込御門内の番町にあった旗本屋敷へと上がった。こうして、番町の青山主膳邸を舞台にした、世にも怖ろしい「番町皿屋敷」の幕開けとなる・・・はずなのだが、史実としてはよくわからないのが実情なのだ。
 「番町更屋敷」も芝居や講談、落語に取り入れられて、付会やフィクションの山に埋もれている。どれが事実でどれが虚構なのか、見きわめることさえ難しい。まず、よく説明されるのが、旗本・青山主膳の屋敷は、とかくおどろおどろしい噂のあった呪いの千姫屋敷跡に建てられた・・・というもの。しばらく「更地」になっていたところへ、青山家が屋敷を建てたので当初から「更屋敷」と呼ばれていたという。ここで、「更」と「皿」の語呂あわせが整う。でも考えてみれば、江戸へともどった千姫の屋敷があったところは、当初は竹橋近く、のちに徳川清水・田安両屋敷が建つ前の御城内・北の丸で、旗本屋敷街の番町界隈とはどうしても結びつかない。現に北の丸にあった千姫屋敷は、その死後、常陸の千姫にゆかりのあった弘経寺(水海道市)へと移築されている。
 芝居などでは、事件は1740年(元文5)に起きたとされているが、『諸国里人談』(1743年/寛保3)には正保年中(1644~1648年)ごろ、牛込御門近くの事件として記録されている。もし事件が1740年に起きたとすれば、わずか3年後に書かれた『諸国里人談』で、その詳細が見逃されるはずはない。同書では奉公先も旗本屋敷の腰元ではなく、単なる武士の下女としている。
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 武士の下女、十の皿を一ツ井に落ちたる科により害せられ、其亡魂、夜々井の端にあらはれ、一より九を算へ、十をいはずして泣叫伝事、普く世に知る所なり。此古井の屋敷は江戸牛込御門の内に有り。(菊岡沾涼『諸国里人談』巻之二より)
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 この記録だと、お菊は皿を割ってすぐに殺されていることになるが、これとは別に、怒った主人に指を1本斬り飛ばされたという伝承も残っている。このあと、井戸に飛び込んで自害したり、そのまま屋敷を髪ふり乱して逃げ出したり・・・と、のちの展開は多様だ。お菊の出生も、実はさまざまなのだが、平塚の宿場役人の娘・真壁菊さんの伝承が、いちばんリアルなように思える。ちなみに、お菊さんは1740年(元文5)に死んだことになっている。長持ちに詰められた娘の死骸を、馬入川(相模川)の渡しで受取った父親の源右衛門は、主人による手打ちは刑死人と同様ということで、あえて墓碑は建立せず、栴檀の木を植えたというわけだ。
 お菊伝説には、指を斬られたあと屋敷を逃げ出したというのもある。市ヶ谷御門の近くに、切通し坂という通りがある。この坂は別名「帯坂」とも呼ばれ、奉公先を飛び出したお菊さんが、解けた帯を引きずりながらここまで逃げてきたという謂れが残る。さて、どれが史実なのかはわからないが、当時、武家の主人が粗相をした使用人をひそかに手打ちにし、闇から闇へと葬っても罪に問われないことが多かったのは事実だ。江戸の町中とは異なり、武家屋敷の家内仕置き(管理)は一種独特な治外法権エリアだった。だから、実際に起きたなんらかの事件(複数)がベースとなり、「番町皿屋敷」の伝承が形成されたのではないか? 湘南のお菊さんも、そんな犠牲者のひとりではなかったかと思われるのだ。
 

 ある日、近くに住む町人たちが、廃墟となった番町の旗本屋敷へ肝試しにやってきた。破れた裏門から、荒れ果てた庭先へ入りこむと、さっそく古井戸から・・・
 「一枚・・・、二枚・・・、三枚・・・」
 とお菊さんの、か細く恨めしげな声が聞こえてきた。
 「で、でた~~~!!」
 町人たちは逃げ出そうとしたのだが、門が閉まって開かない。九枚まで数えるのを聞いてしまうと、お菊さんの呪いにかかってしまうのだ。
 「五枚・・・、六枚・・・、七枚・・・」
 必死で逃げようとするのだが、どうしても門が開かずに逃げられない。町人たちは耳をふさいで、ガタガタと震えていた。
 「九枚・・・、十枚・・・、十一枚・・・」
 「・・・・・・!?」
 九枚をすぎても、お菊さんの勘定は止まらない。
 「十六枚・・・、十七枚・・・、十八枚・・・」
 「もも、もし、お、お菊さん、どど、どうして九枚で終わらねえんで!?」
 「あい、あたくし明日からお盆休みで湘南に帰りますので、余分に勘定しときます」
 おあとがよろしいようで。

■写真上:市ヶ谷駅近くの通称「帯坂」。丘を切り開いたため、切通し坂と呼ばれていたようだが、いまはビジネス街となり当時の寂しい面影はない。
■写真下:左は昭和20年代の寂しげな番町界隈。右は「家重代の宝も砕けた、播磨が一生の恋も亡びた」の名ぜりふで有名な岡本綺堂『番町皿屋敷』。青山播磨守主膳は三代目・市川左団次、お菊が二代目・市川松蔦。(昭和初期) 書いちゃ悪いが、左団次の刀(打ち刀)の持ち方が表裏逆だ。