聖母坂をのぼり、目白通りに出て左折すると、左手に「カネモ」というおもちゃ屋がある。ふつうのおもちゃのほか、プラモデルの品揃えがかなり充実している店だ。裏の倉庫には、その昔発売され今では手に入らないプラモデルが、たくさん眠っているような気配があった。「カネモ」が、全国のプラモデル・マニアから熱い注目を集めている店だと知ったのは、つい最近のことだ。
 いまから10年以上も前、小学校低学年だった上のオスガキを連れて、わたしは毎週のように「カネモ」へ足しげく通っていた。もちろん、プラモデルを買うためだ。それも、当時流行りのガンダムや機動戦隊○○レンジャーではなく、昔ながらの、部品が細かくて作るのが面倒な、軍艦や飛行機を買ってはいっしょに作っていた。別に「軍国少年」や「小国民」に育てるためではなく、手先の器用さや集中力を覚えさせるのが目的だったのだ。でも、プラモを買ってくると、子供そっちのけで親のほうが夢中になってしまい、わたしの集中力低下やボケの防止になっただけで、結局、オスガキの教育にはなりませんでしたが・・・。
 プラモの箱に描かれた、昔と変わらない“カッコいい”戦艦や重巡、空母などの絵を見ると、つい戦時中に描かれた「戦争画」をイメージしてしまう。この「戦争画」の系譜は、戦後もずっと少年誌に掲載されつづけ、子供のころ、少年サンデーや少年マガジンなどを買うと、毎週のように「戦艦大和」や「戦艦長門」、「ゼロ戦」や「隼」が登場していた。それを見て、親は顔をしかめていたものだ。プラモデル・メーカーとのタイアップだったのかもしれないが、いまでもそのかたちを見れば、艦名や機名を当てられるのはわれながら驚いてしまう。「カネモ」でプラモを買って、その先の道を左へ折れると、佐伯祐三のアトリエへと抜けることができる。だが、左折してすぐ左手の一角にも、大正期、ひとりの洋画家が住んでいた。中村彝の親友Click!で、その最期を看とった鶴田吾郎だ。「カネモ」の裏に、鶴田吾郎の自宅兼アトリエがあったのだ。

 鶴田吾郎は戦後、「戦争画家」として“有名”になってしまった。多くの画家たちが経験したように、絵の具やキャンバスの配給を断たれるからではなく、また福田一郎のように特高から呼び出しを受けて検挙されたわけでもなく、さらには靉光のように軍部への非協力から前線へ兵士として送られてしまう危険性があったわけでもない。1937年(昭和12)に自らすすんで、中国の戦地へ絵を描きに出かけている。もともと、各地を旅行して写生するのが好きだった彼は、その延長線上で「戦地」を捉えていたのかもしれない。だから、「我々は思想家にあらず画家なのだから描きたいものは何だろうと描くのだ」(「画家の立場」朝日新聞1945年10月25日)と、戦後みごとに開き直ってみせたのだろう。人間としてあまりに無自覚な、どこか原爆を開発して、日本へ落としたときにシャンペンで乾杯した科学者の言質に、とてもよく似ている。
 彼の代表的な作品『神兵パレンバンへ降下す』は、旅行好きの鶴田が得意の“現場”へ出かけ、作戦に参加して描いているのではない。軍部のニュースフィルムや戦場写真などを見ながら、アトリエで描いたものだ。つまり、日本軍の作戦動向を強く認識し、共鳴・共感をともないながら描いたことになる。これを、美術や絵画という文脈(妙な言い方ですが・・・)ではたして捉えられるのだろうか? 確かに、当時の人たちに大きな感銘を与えたのは間違いない。「戦争画」の展覧会には、数多くの人々が押しかけて賑わっていそうだ。でも、それは美術を鑑賞しにきたのではなく、ラジオや新聞ではいまいち臨場感を得られない人たちが、「リアルな戦場」を疑似体験しにやってきたのではなかったか。太平洋戦争が始まる前、軍部のプロパガンダの一環である「戦争画」の展覧会によって、勇んで志願し中国の戦場で死んだ人間だって少なからずいただろう。真珠湾後は、「防空絵画」とともに「銃後の備えはよいか?」と、警視庁から防火ハタキとバケツを支給され、「大和魂」で初期消火などとわけのわからないバカげた訓練をさせられ、3月10日にハタキとバケツを持ったまま火に囲まれ、逃げ遅れた人間が下町に何万人いたものか。「避難路」を口にすれば「非国民」と呼ばれた、まさに日本を滅ぼす「亡国の思想」とセットになって戦争画は息づいていたのだ。
 

 「戦争画」は、「カネモ」のプラモデルの箱に描かれた、いくつになっても組み立ててみたくなる“カッコいい”戦艦や戦闘機のイラストと、わたしは本質的には同じものだと思う。いま現在、「戦争画」の数々を観ると、ことさら反戦のメッセージを受け取れるように感じてしまうのだが(反面教師としての読み方も含め)、それは時間経過が産んだ結果論のフィルターのひとつにすぎない。「戦争画」をタブーとし秘匿してしまうのには反対だが、プラモのパッケージ「絵画」と同様、いまさらそこからは何も産まれてきはしない・・・、そう思うのだ。

■写真上:鶴田吾郎『神兵パレンバンに降下す』(部分)、1942年(昭和17)油彩、陸軍作戦記録画より。同年12月に開かれた「第1回大東亜戦争美術展」に出展作品。
■写真中:新宿中村屋に展示される、中村彝との競作『盲目のエロシェンコ』1920年(大正9)。
■写真下:左は、昭和初期の鶴田吾郎邸あたり。右は北が下になる大正期の「下落合及長崎一部案内」詳図。鶴田の「鶴」の字が、「ウ」かんむりに「鳥」と略字化されている。