新宿区四谷に、「蜘蛛切坂」という坂道がある。伝説によれば、渡辺綱(源頼光の四天王のひとり)が蜘蛛の化け物を斬って退治したことになっているようだが、この坂道は別名「禿(かむろ)坂」と呼ばれている。別に遊女屋の禿がいたわけでもなく、樹木が繁らない禿山だったわけでも、通行人を脅したり因縁をつけたりするハゲ親父がいた坂道でもない。ここで禿(かむろ)と呼ばれているのは、カッパ(河童)のことだと江戸期より伝えられている。
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 河童が大入道になったり、かわいい女の子の姿になったり、いろいろな化け物になって、人にいたずらをしたので、その化けた場所が坂ならその坂は禿坂、橋なら禿橋、屋敷なら禿屋敷、路上なら禿横町とか禿小路などと呼んだものである。(『江戸の坂 東京の坂』横関英一より)
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 「かむろ屋敷」や「かむろ横町」「かむろ橋」・・・と、なんとなく趣きがあって風情がいいが、いまだとたいがい「ハゲ屋敷」に「ハゲ横町」と呼ばれてしまうだろう。「ハゲ坂に住む、ハゲ屋敷のハゲ親父」と、小中学生たちにもうかっこうな笑いのテーマを提供してしまいそうだ。
 大江戸の町には、「禿坂」と呼ばれる坂道が7つも存在している。でも、川も泉も池もないところになんでカッパがいるんだ?・・・と思うのだが、江戸時代の早い時期に埋め立てられたケースが多いようだ。四谷富久町にある禿坂も、そのうちのひとつ。もともとは、自證院のうっそうとした森が拡がり、善慶寺の南側には2本の小川が流れていた記録が見える。江戸期の切絵図をさかのぼっても、この2本の川をすでに見つけることができない。大正通り(靖国通り)から急激に下る、この愛住町あたりは典型的な谷戸地形で、江戸時代には「饅頭谷(まんじゅうだに)」と呼ばれていた。
 

 善慶寺のある禿坂から、四谷町方面へと南へ下る谷間には、江戸時代よりたくさんの寺院が集まっていた。ちょうど、深川や横寺町(神楽坂)、小日向のような町の風情を形成している。谷間の西斜面には寺々が軒を連ね、墓地が点在していた。2本の小川がどのように流れていたのか、現在の地形や道筋から想像すると、四谷第四小学校を中心にその両側に流れがあったのではないか? 小学校の敷地は、もともと5つの寺と大旗本・武田兵庫の下屋敷だったところだ。
 ちょうど谷底に当たる一帯だが、鎌倉期からこのあたりには、なんらかのいわれがあって種々の庵(いおり)が結ばれていた形跡がある。先の自證院には、弘安の役のあった1281年(弘安4)の板碑(鎌倉時代)が残されている。「饅頭谷」と名づけられた当時、ここには素性庵(すじょうあん)という庵が建っていた。もう、勘のよい方はお気づきだと思う。おかしな「饅頭谷」という名前は、江戸期の駄洒落に由来している。庵を挟むように流れる2本の小川、庵(あん)を川(皮)が包み込んでいる谷間というわけだ。
 ずっと気になっていたのだが、先日、ようやく饅頭谷の現場を歩くことができた。皮の中心にあるあんこ部分に建っている小学校の生徒には、特別に虫歯が多いかどうかは定かでない。

■写真上:饅頭谷へと急激に下る坂道。ここもバッケ地形で、右手が正応寺、正面があんこ部分の四谷第四小学校。(切絵図:方向①)
■写真下:おそらく川が流れていたと思われる、饅頭谷の細道。(切絵図:方向②)
■切絵図:金鱗堂・尾張屋清七版「増補改正・千駄ヶ谷鮫ヶ橋四ツ谷絵図」(1864年/元治元)。