「つまらない! 学園祭の映研作品だ」などと、徹底的に酷評された映画だ。でも、なぜかわたしはこの作品に強く惹かれてしまう。『稲村ジェーン』(桑田佳祐監督/1990年)は、きっと映画作品として好きなのではなく、子供のころの“情景”再現フィルムとして大好きなのだろう。1965年(昭和40)ごろの鎌倉海岸や湘南海岸★は、まさにあの“空気”であり、あの“匂い”であり、あの“音”だったのだ。映画の冒頭、骨董屋の店先でゆれる地曳のビン球(ガラス玉)で作った風鈴と、蝉しぐれの声を聞いただけで、ミルク草(浜昼顔)の咲く砂浜で捕虫網片手にウスバキトンボを追いかけた世界へ、どっぷりと回帰してしまう。なぜか、買うつもりもないのに骨董屋のひんやりとした店内で、よく火照った身体を冷やしたものだ。『稲村ジェーン』は、かなりカネをかけた「プライベートフィルム」として楽しむのが、おそらく正しい鑑賞のしかたなのだろう。
 八丈島の南を、台風がグスグスとゆっくり東北東へ向けて通過するころ、浜の魚屋では伊豆・真鶴産のみごとなキンメが安く売られる。キンメの煮つけと、風にはためく禁漁あるいは遊泳禁止の赤い布と、「ジェーン」はシンクロしていた。ラジオから、マイルスの『Walkin’』が流れるのも絶妙だ。ファンキーブームの名残りが、ラジオから風の音に混じって聴こえ、毎年、ベンチャーズがやってくるというデマが、浜辺では飽きもせずに流れていた。気圧が急激に下がり、壷や花瓶の水があふれ始めると、蝉の声がピタリとやみ、耳がピキピキと音を立て、アオバトの群れがいっせいにどこかへ雲隠れする。神奈川南部の海っぺりは、カモメじゃなくてアオバトなのだ。すると、暴風雨がもうすぐそこ、間近に迫っている。

 鯨岩にドーンと波がぶち当たり、巨大な三角波を生む七里ヶ浜のポイントから、はるか10kmも西へ離れた、左手に烏帽子岩、背後には湘南平を望むバニューポイントやハナミズポイント、そしてオオイソポイントには、あまりいい波は来なかったけれど、それでも10歳にも満たない小学生を興奮させるには充分だったのだ。気圧がみるみる下がりつづけ、脳内アドレナリンの分泌が全開となるころ、身のまわりではおかしな現象が起きはじめる。
 暴風雨の中、高麗山や湘南平に登りはじめるやつ、“扇の松”の巨木に登るやつ、ボードなんて買えるはずもないから、廃屋からトイレの戸板を意味もなく浜へ持ってくるやつ、「感電するんじゃねえべか?」(湘南方言)という大人たちの心配をよそに、黒松の防砂林の中に黄色い天幕を張ってエレキをテケテケ弾きはじめる“不良”の兄ちゃんや姉ちゃんたち、ユーホー道路(遊歩道路=国道134号線)沿いのシーサイドハウス(なんて言わず当時は“海の家”だ)はとうに台風に備えて戸締りしてるのに、なぜかウロウロやって来る客たち、いざとなると怖いので海に入るわけでもなく、米軍のコロネット作戦に備えて造られた浜のトーチカ跡のコンクリートにボードを意味もなく立てかけているやつ・・・、この非日常を楽しむ湘南版「台風クラブ」の経験をしたことのない人には、『稲村ジェーン』の楽しさとせつなさはわからないだろう。

 そう、「待ちに待ったビッグウェーブが来てるのに、なんで海へ行かずに鎌倉山へ行くの?」、「波乗りシーンが、ほとんどね~じゃんかよ」というような感想がいちばん多かったそうだが、アドレナリン全開モードの中、いてもたってもいられない“場”の雰囲気をウキウキしながら味わうだけで、もう一所懸命で精一杯の満腹状態なのだよ。そんな興奮状態で海に入れば、事故に遭うのは目に見えてる。停電で扇風機もまわらない家にいたたまれず、暴風雨なのに外へ出ると近所のガキどももジッとしていられないのか、みんな顔をそろえている。「海へ行くべ!」じゃなく、暴風雨の相模湾を見わたせる「山へ行くべ!」なのだ。海へ入ったやつらは、死んだ。わたしが憶えている限り、少なくとも台風の中、すぐ前の海に入ってふたり死に、ひとりが行方不明になった。きっと海に入った瞬間から、まるで荒ぶる神輿の担ぎ手がトランス状態となるように、とうに自分自身を見失っていたのだろう。
 「田舎にゃよ、田舎の波しか来ねえんだよ」という台詞、鎌倉よりもさらに田舎の湘南にやってきたビッグウェーブはドロ臭かったが、いまだ強烈な印象をわたしに残している。さて、今年も「ジェーン」は来るだろうか? 美味いキンメの煮つけや、身厚なムロアジの開きは食えるかな?

★『稲村ジェーン』の舞台である鎌倉海岸(材木座・由比ヶ浜・七里ヶ浜)は、湘南海岸とは呼ばない。鎌倉人(地付きの人たち)に怒られるからだ。(笑) わたしが湘南海岸と呼ぶのは、藤沢の鵠沼海岸から小田原海岸まで、すなわち江戸時代(1664年/寛文4)に小田原の歌人・崇雪が、大磯にある西行ゆかりの鴫立沢(しぎたつさわ)のもとに、鴫立庵(でんりゅうあん)を建立した際、おそらく裏の千畳敷山(湘南平)にでも登ったのだろう、「看盡湘南清絶地」という碑を残しているのに由来する。これが、もっとも古い「湘南」地方の呼称だ。明治期、大磯に日本初の海水浴場がオープンしたときには、なぜか「湘南」の範囲が狭まり、馬入川(相模川)から西が湘南と呼ばれていた。