まだ東海道線の貨物列車を、たまに蒸気機関車が引っぱっていた東京オリンピックの少し前、わたしは飽きもせずに午後の2~3時間、鉄道を眺めていた記憶がある。小学校にあがる前だから、おふくろが駅近くの料理教室へ通っていたとき、おそらく一緒にくっついていったのだろう。なにをするでもなく、ボーッと行き交う電車や汽車を眺めてすごしていた。
 あのころの石炭の匂いを、いまだに思い出すことがある。いや、蒸気機関車ばかりでなく、家の風呂も石炭で焚いていた。とうに都市ガスが引かれ、トイレは水洗化されていたのに、なぜか風呂だけは“いま風”ではなく、ずいぶんあとまで石炭だった。夕方になると、近所の家の煙突から灰色の煙とともに、石炭の匂いがしてきた。その匂いが漂いはじめると、そろそろ家に帰らなければならない。夏はまだ陽が高いにもかかわらず、匂いがしてくるとガッカリしたものだ。そのうち、近所の母親たちが子供を呼びに来て、ひとり抜けふたり抜けしていく。残るのはあと3人・・・ぐらいになると、友だちが減っていく寂しさが嫌だったものか、別にあらかじめそう決めていたわけでもないのに遊びをやめ、さっさと解散して帰宅していた。
 ある日、誰が言いだしたものか、子供たちだけで電車を観にいこう・・・ということになった。きっと、小学校にあがった年上の子供が混じっていたせいだろう。年上の子が混じると、さかんに年下の子たちを「冒険」へと扇動するのは、いつの時代でも変わらない。当時は自転車を持ってる子のほうが少なかったから、駅の近辺まで歩いていった。自宅周辺から1kmちょっとはあっただろうか。出発したのが夕方だったので、見覚えのある住宅街へと帰ってくるころには、あたりは真っ暗になっていた。近所の親たちが、通りへ集まっていたのはいうまでもない。・・・怒られた。

 新宿の昔を記録した本を読んでいると、同じような情景があちこちに出てくる。その中に、「石炭のいい匂いを嗅ぎにいこう!」という“遊び”があった記述を見つけて、思わず噴き出してしまった。蒸気機関車の香ばしい煙を、肺にいっぱい吸い込むためには、特別な場所まで行かなければならない。つまり、鉄道が眼下に見下ろせ、蒸気機関車が真下を通過する絶好のスポットというわけだ。子供たちがあこがれた場所で、頻繁に登場するのが目白駅と四ッ谷駅の2箇所。下落合や目白近辺の子供たちは、山手線が下を通る目白橋をめざし、四谷近辺の子供たちは中央線を見下ろせる四谷見附橋をめざした。

 石炭の煙で、顔や衣服が煤けたはずで、親にも少しは怒られたのだろうが、そんなことはおかまいなしに石炭の「いい匂い」を嗅ぎに出かけていたようだ。顔は煤で黒くなったかもしれないが、目はキラキラと輝いていたに違いない。

■写真上:四谷見附橋から見下ろした中央線。JRは「四ッ谷」(小さい「ッ」)、東京メトロの丸の内線は「四谷」(「ツ」なし)と「四ツ谷」(大きい「ツ」)、南北線は「四ツ谷」(大きい「ツ」)とみんなバラバラで、同じ「よつや」「よつたに」でも各地名の多様性を反映しているところが面白い。
■写真中:1911年(明治44)の「石炭の匂い」スポット、四谷見附橋から甲武鉄道(中央線)を見下ろしたところ。写真上と同様に、市ヶ谷方面を望む。左手の白い建物は旧・陸軍士官学校。
■写真下:1955年(昭和30)の、四谷見附橋から見下ろす中央線。やはり市ヶ谷方面だが外堀が埋められ、チョコレート色の電車が走っているのが見える。