いまでは、その地名や範囲さえおぼろになってしまった「戸山ヶ原」だが、この土地には日本の初めて物語がいくつか伝承されている。江戸時代までは尾張徳川家の下屋敷だったが、明治に入ると陸軍が練兵用地として接収をする。つまり、国の所有地となるわけだが、すべてを接収してしまったわけではない。戸山ヶ原の南西側は住宅地として早くから開発されていたし、学校や史跡も多かった。戸山ヶ原初物語のキーワードは、「飛行機」に「競馬」、「ゴルフ」に「映画」だ。
 まず「飛行機」は、日本で初めて飛行機の実験が行われたのが、ここ戸山ヶ原だった。1910年(明治43)に陸軍大尉の日野熊蔵が、自分で製作した単葉飛行機の飛行実験をしている。200mしかない射撃場を滑走路にしたため、飛行するまでにはいたらなかった。また、同年に今度は海軍技術将校の奈良原三次が設計した、複葉飛行機の飛行実験も戸山ヶ原で行われたが、機体は浮揚しなかった。ともに射撃場の滑走路が短かったせいだと考えられ、同年12月に代々木練兵場へ実験場を移すと、さっそく飛行に成功している。

 次に「競馬場」は、本格的な施設が造られたのは目黒の競馬場が初めてだった。ところが、それ以前にも洋式競馬場は存在していた。1879年(明治12)に、米国のグラント大統領夫妻を迎えて競馬会を開催するため、戸山ヶ原に突貫工事で競馬場が造成された。現在の新宿コズミックセンター(旧・新宿体育館)から、早大理工学部をかすめて戸山公園へとつづくあたりだ。同年の8月に、競馬会は明治天皇も出席して行われたが、これが現在までつづく近代競馬会のはじまりだといわれている。その後、何度か来賓を招いては競馬会を開催していたが、1892(明治25)に上野池之端へ、つづいて1907年(明治40)、庶民も楽しめる本格的な競馬場の誕生となった目黒へ移転している。ちなみに、府中へと移転したのは1933年(昭和8)のことだった。
 さて「ゴルフ」は、1924年(大正13)に日本初の「戸山ヶ原ゴルフ倶楽部」がここで誕生している。それ以前からも、戸山ヶ原では付近に住む洋行帰りの人たちが、陸軍の敷地へ入り込んで洋行土産に買ってきたクラブを振ってはゴルフを楽しんでいたらしい。人数が増えるにしたがい、大正期に入って正式な倶楽部として発足した。ホールをいくつか作り、陸軍の演習がない日時を見はからって、ゴルフ大会が開催されていた。でも、そのうちプレイのエチケットが乱れて、訓練中の兵士のところまでボールが飛んでくるようになったのだろう。兵士に玉が当たってはタイヘンと、1938年(昭和13)ごろ戸山ヶ原のゴルフは禁止されてしまう。戸山ヶ原のゴルフ倶楽部は、その後武蔵小金井へと移り「武蔵野カンツリー倶楽部」として再スタートしている。
 

 最後に「映画」だが、中国の孫文とも親しく交わり、日本映画史では必ず登場する梅屋庄吉の自宅が大久保百人町にあった。自宅内をスタジオとして映画撮影を行う、日本初の映画プロダクションだったわけだが、戸山ヶ原はかっこうのロケ地となった。時代劇や現代劇を問わず、戸山ヶ原では頻繁に撮影が行われ、現在の京都・太秦のような映画初の恒常的なロケ地として使用された。だが、時代が下るにつれてゴルフ場と同様に、陸軍敷地内での撮影は難しくなっていっただろう。現在では、映画の記念碑さえ残っていない。
 高田馬場から山手線沿いの戸山公園、そして明治通りを越えてもうひとつの戸山公園へと散歩すると、ちょうど陸軍の射撃場跡から近衛騎兵連隊、陸軍幼年学校などの跡地を歩くことになる。いまでは、すべての敷地が公園や住宅、学校、公共施設の下に埋もれてしまって、昔日の戸山ヶ原の面影は皆無だ。いまや、東京の顔である都心・新宿の影に、もうひとつ軍都・新宿の顔が眠っている。そして、そこでは数多くのエピソードが生まれては、時代とともに消えていった。

■写真上:戸山公園(旧・西大久保地区)の射撃場跡を、南北に横切る並木道。
■写真中:明治末期ごろの戸山ヶ原。(早大記念帖より)
■写真下:日本初の飛行機実験が行われた陸軍射撃場。長い間、野外の射撃場だったが、周囲に住宅が増えるにつれ流弾が危険なのと、近所からの騒音苦情で1928年(昭和3)にコンクリートの密閉式となった。左の空中写真の新宿コズミックセンターあたりから西が、日本初の競馬場跡。同時に、この敷地全体が飛行機実験場でもあった。右は、廃墟となった1955年(昭和30)の射撃場。1965年(昭和40)ごろにはすべて解体され、写真の右手が早大理工学部、左手が新宿体育館(現・コズミックセンター)となった。写真奥に見えているラインは山手線。