五十路に入ってから、仕事の専門分野を変えて大成するのは、並大抵のことじゃないと思う。ましてや、人生50年といわれた江戸期に、いままでの馴れた職業をあっさり棄てて、別の分野の仕事、しかも修行がきわめて困難な専門職を新たに始めるとしたら、当時の周囲にいた人々は正気を疑ったろう。仕事を後代に譲り、とうに隠居してもいいはずの年齢なのだ。
 江州(近江)の佐和山は長曾袮(ながそね)の出身といわれ、関ヶ原の戦以降は、越前の福井城下で生活していたと伝えられている長曾袮姓を名乗った一族は、さまざまな建築物の鉄金具や甲冑、鉄鈴、鐙(あぶみ)、轡(くつわ)、文房具などの製造を専門としていた。福井藩に抱えられ、徳川家康が死んだときは、日光東照宮の建築金具は長曾袮俊家(としいえ)の工房が担当し、上野東照宮の建築には長曾袮元俊(もととし)の工房が総金具造りを任されている。幕府から用命を請けるほど、金物(かなもの)製造には優れていたようだ。
 その中から、長曾袮左市(才一とも)興里(おきさと)という、50歳になる変わった老人(当時は老境だ)が現れた。戦がない世の中、もともと流行らない甲冑師として生計を立てていた彼は、もうそろそろ引退するかと思われたときに、突然「江戸へ行きてえ!」と言い出して周囲を驚かせることになる。彼が江戸へと出た理由は、芝居や講談などにより粉飾ぷんぷんなので、事実はどうだったのかは皆目わからない。中には、越前で人を殺したから出奔したなんて、無責任な説もあるぐらいだ。もしそれが事実だとしたら、江戸でとうに捕縛されていたろう。
 
 いま風にいうと、とにかく、なんらかの事情によってインスパイアされた五十路の彼は、ムラムラと創造力をかき立てられたのかモチベーションが急激に高まり、取り憑かれたように江戸へと出てきた。当初の落ち着き先ははっきりしないが(本所割下水という説がある)、どこかへ弟子入り(最新説は上総介兼重が有力)して懸命に修行したあと、彼の初期作品には「至半百武州之江戸」(50歳に至って武州の江戸に居住)と銘を切ったものがある。そのうち、「長曾袮興里於武州江戸作之」「住東叡山忍岡辺」と、刀の茎(なかご)へ銘打つようになった。そう、彼は50歳を過ぎてから刀鍛冶へと転向し、下谷(上野)の不忍池近くに住むこととなった。
 上野精養軒へとのぼる途中の左手に、花園稲荷と五条天神が並んでいる。花園稲荷は、江戸期には「忍岡稲荷」と呼ばれ、出雲神の倉稲魂命(ウガノミタマノミコト=スサノウの息子)を奉った古社だ。古墳の上に築かれて玄室が露出してからは、通称「穴稲荷」とも呼ばれていた。このあたり、早稲田の穴八幡と似たようないわれを持っている。五条天神は、神田明神と同様に大国主命と菅公が主柱だが、昭和初期にここへ移ってきた新しい社だ。この花園神社や五条天神の裏手が、花園または「御花畑(おはなばたけ)」と呼ばれた一画で、長曾袮興里はこのあたりに住んでいた。五条天神裏には、彼が焼刃わたしに使っていた井戸なるものが残っているけれど、鎌倉の「正宗の井戸」と同様に、彼の人気が沸騰した後世の付会の匂いがする。

 興里は、主に解体された建築物の品質のよい古釘や古金具を溶かして作刀するのを好んでいたので、刀の銘には「長曾袮古鉄(こてつ)」と切るようになった。「古鉄」が「虎徹」、さらには「乕徹」へと変化していくわけだが、弟子の代作が少なく、82歳ごろまで現役で鍛刀したというから、その体力には舌を巻く。晩年には、「興里入道乕徹」と銘タガネで彫りつけるが、「虎徹」時代の作品がもっとも多く現存している。彼の作品が人気を得たのは、そのすさまじい斬れ味で、石灯籠の笠石(砂岩か?)を両断した記録が残っている。
 同時代の新刀期(江戸時代前期)、西の刀鍛冶の横綱が、美しい濤乱刃(とうらんば)で高名な大坂の津田越前守助廣(すけひろ)に対し、東の横綱は長曾袮虎徹といわれた。のちに新々刀(江戸後期)の水心子正秀(すいしんしまさひで)が、錵(にえ)強く焼きが深い助廣の濤乱刃は、刀身が折れやすいと実証してからは、虎徹の人気は幕末にかけ、さらに急騰していくことになる。

■写真上:五条天神社の右裏、忍岡稲荷(花園稲荷)の左手に「虎徹の井戸」と称する、焼き刃わたしの湯桶に使用したとされる井戸が残るが、真偽のほどは定かでない。
■写真下:上野東照宮の唐門。長曾袮元俊の美しい金具とともに、左甚五郎の豪華な彫刻(昇降龍)が印象的だ。日光とともに、長曾袮一族が腕を競った建築物。長曾袮虎徹が東照宮近くに住んだのも、なにか意図するものがあったのだろうか。
■図版:虎徹晩年の押形(刀の拓本のようなもの)。いわゆる「ハコトラ(乕)時代」の作品。表に「長曾袮興里入道乕徹」、裏に「石燈篭切」と添えられている。