きょうは、日本橋の「ベッたら市」。宝田恵比寿にちなんだ「べったら市」は、いまでは伝馬町が中心となってしまっているが、戦前は日本橋の随所に市が立ったそうだ。東日本橋でも、薬研堀界隈には夜見世が多くならび、ちょうど薬研堀不動から千代田小学校(現・日本橋中学校)あたり、夏から秋にかけて風鈴屋、吊忍(つりしのぶ)屋、金魚屋、蟲屋などが軒を並べていたようだ。そして、秋も深まった10月19日になると「べったら市」が立ち、翌日の20日は恵比寿講となる。
 柳橋界隈にも、恵比寿神にちなんだ木彫りの恵比寿や大黒様、それを奉るお宮などを売る見世がいっせいに並んだそうだ。商家では、商売繁盛を願ってこれらの恵比寿や大黒を奉り、新しい木像に毎年いっせいに買い換える風習があった。これらの夜見世に混じって、べったら漬けばかりではなく、浅漬けを売る見世も並んでいた。なぜ、べったらではなく浅漬けなのか・・・? この日、柳橋界隈の娘たちやきれいどころにとっては、1年に一度のとんでもない厄日だったのだ。

 若い男たちは、夜になると浅漬けを買って、柳橋界隈を何気なくそぞろ歩きながら、自分の気に入った娘や芸妓が通りかかるのを待っている。若者たちは用事帰りの娘や、宴会を終えて帰宅しようと出てくる芸者が見えると、やおら浅漬けの包みを開けて糠味噌を手一面にぬったくり、一目散に彼女たちへ駆け寄っていく。すると、驚いて立ちすくむ娘や芸妓に、「べったら、べったら!」と叫びながら、浅漬けの糠を着物に塗りたくるのだ。
 またたくうちに、娘たちの着物は汚れ、江戸東京随一のイキでスマートな柳橋芸者は、全身が所帯じみた糠味噌くさくなってしまう。娘たちは若い男に身体を触られるので、「キャーキャー」と興奮して半分夢見ごこち。芸者衆は「まあ酷い、憶えといで!」と叱りはするが、「べったら」はとても縁起のいい、年に一度めぐってくる商売繁盛のお祭りだから、柳橋のねえさん、怒りたくても絶対に怒れない。本気で怒ってしまったら、ここではいちばん嫌われる野暮天のきわみなのだ。砂糖が入ったべったら漬けの米麹だとあとがベタベタになって、汚れでも付いたら取れないシミになってしまうから、ここは浅漬けの糠というわけだ。
 こんな小学生の悪戯のようなことが、戦前の柳橋や日本橋では行われていた。この夜に限って、若い男たちが女の身体に触れ、「べったら」を付ける特権が認められていたのだ。ふだんは丁稚奉公している10代の子が主人のお嬢さんへ「べったら」、いつも気になっている近所の娘へこのときとばかりに「べったら」、貧乏で料亭などでは会えないあこがれの芸者に想いをこめてここぞと「べったら」・・・。なかなか男女が気やすくコミュニケーションできなかった時代の、年に一度めぐってくるかけがえのない無礼講、絶好のチャンスだったのだ。女たちの困ったような嬉しいような顔見たさに、男たちは情熱をこめながら、手に糠味噌を入念に塗りたくっていた。

 親父が子供のころまで、この風習は残っていたそうだが、世の中が暗くなり始めた昭和10年代には、このような「不健全で頽廃的な馬鹿騒ぎ」は廃れてしまったらしい。千代田城天守を復元したり、日本橋上の高速道路を解体するのもいいけれど、女性相手に「べったらべったら」を復活させるほうがプライオリティが高いんじゃないかと思い始めている、最近のわたしなのだ。(><;☆\

■写真上:浅草御門(浅草橋)から柳橋へと向かう、神田川沿い旧・平右衛門町の道筋。
■写真中:おそらく明治末か大正初期の、柳橋界隈の街並み。
■写真下:明治の浅草橋・柳橋界隈。右手の大川(隅田川)を渡る橋が両国橋。左手から中央へと流れるのが神田川で、手前から浅草橋と柳橋(木橋)。両国橋の位置が、現在よりも下流にあるのがよくわかる。柳橋と両国橋の間にある町が元柳町で、現「両国広小路」道路の下になってしまっている。元柳橋には、たくさんの芸妓が住んでいた。井上“探景”安治・画『両国橋及浅草橋真図』より。

●小僧編
 またまたponpocoponさんが、「べったら市」の夜の柳橋を描いてくださいました。糠を手に塗って現れたのが、イイ男じゃなく小僧だったので、複雑で困った顔をして逃げるねえさんの表情がなんともいえません。
http://blog.so-net.ne.jp/bijinga-ponpocopon/2005-10-22
●若旦那編
 もう一作、今度は柳橋のねえさんにしつこく「べったら」攻撃をかける、バカ・・・いえ若旦那を描いてくださいました。ほんとうに、ありがとうございました。<(__)>
http://blog.so-net.ne.jp/bijinga-ponpocopon/2005-10-26