戦争の反対は、自由であること
『アワーミュージック』(ジャン=リュック・ゴダール監督/2004年/フランス・スイス)

 アメリカンニューシネマから遡ること10年前、すでにジョン・カサヴェテスは『アメリカの影』を撮っていた。同じころ、ゴダールは初の長編『勝手にしやがれ』を作った。ヌーヴェルヴァーグの誕生である。
 翌60年の長編2作目『小さな兵隊』はスイスに逃れた脱走兵が情報機関によってテロリストにされるが、敵方の女スパイに出会い、テロに疑問を抱くという物語。アルジェリア戦争を批判したという理由で、映画は公開まで3年近くかかったが、この作品で混乱する主人公は第2次大戦中スイスに暮らし、兵役を避けるために長いあいだスイス国籍でいたゴダール自身と重なる。
 愚かな戦争に反対するのは当たり前のことで、解放戦線に参加することが解決にならないのはいまさら言うまでもなく、反戦は真っ向勝負でゴダールが挑むテーマではない。戦争の反対は<自由>。デビュー以来一貫してゴダールがテーマにしてきたものだ。タイトルを聞いただけで壁をバックに立つアンナ・カリーナが目の前に浮かぶ『女と男のいる舗道』は堕落する娼婦ではなく、自由の果てを描いた映画である。そして『勝手にしやがれ』と並ぶ代表作『気狂いピエロ』へと続く――。
 自由であるという、底に流れるテーマはデビューから半世紀を経た『アワーミュージック』にもみずみずしく息づいている。

 ゴダール映画の多くの主人公は玉砕するが、それは自由をもとめた果ての行動である。昨年5月のカンヌでのインタビュー(聞き手=松浦泉、篠原弘子)で、ゴダールは、メディアが犯罪として扱う自爆テロは必ずしも犯罪だと思わないと、答えている。プレスリリースから引用する。
 「私が願うのは自分を犠牲にするときに、自分と行動をともにしてくれる誰かがそこにいること……おそらく最後のときには誰も一緒にはいてくれないだろうというのが私の推測なのですが。―中略―9.11のテロリストもそうですが『もう何も失うものがないからこそ、何かを獲得することができる』と彼らは思っている。そこがオルガ(この映画の主人公)つまり私との違いです。『もう何も獲得できないときにも、何かを失うことはできる』というのが私の考え方です」
 冒頭に流れる妙にぶれたような戦争のコラージュ映像。パレスチナの詩人、スペインやフランスの作家などとともにゴダールが彼自身として登場するサラエボでのシンポジウム。彼らが移動するかつての戦場サラエボの意外にも明るい町並み。古い建造物の前に川が流れる美しい風景。そこに架かる橋の断片は再建のときを待っている。何の手も加えていないのに絵のように美しい風景のなかで交わされる「デジタルカメラは映画を救うことができるか」という会話は思わず笑いがこみあげる、ゴダールらしいもの。ゴダールらしいといえば、階段を降りてくるサンダルを履いた女性の足や、水着がくいこむ女性の姿のショットもそうだ。

 ゴダール初体験というより、まだ映画そのものを見慣れていないころ、リアルタイムで観た『パッション』は正直言って、コレなーに? だった。映画青年が夢中になるゴダールのシニカルなユーモアや、哲学的な表現に気づいたのは『彼女について私が知っている二、三の事柄』が最初だったと思うが、かつて映画館の暗がりでどきどきしながら聞いた(もちろん字幕を観ながら)引用のほとんどを知る歳になってみると、まるで懐かしい友人に会ったときのような穏やかさに包まれる。映画を見てきてよかった。                                              負け犬

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●10月15日(土)~ シャンテ シネ(日比谷)公開予定