日立目白クラブの前、北へとのびる目白ヶ丘教会の道を東へ折れると、F.L.ライト風の落ち着いた古いお屋敷が建っている。先日、下落合のギャラリーMIHARUClick!で興味深いお話をうかがった。フランク・ロイド・ライトが、自由学園明日館を建設中に一時期、下落合へ逗留していた・・・という伝承が残っているというのだ。その逗留先というのが、このお宅だったとのこと。自由学園明日館は、1921年(大正10)に建設されている。
 下落合界隈を、大正期に上空から撮影した写真は存在しない。もっとも古いもので、1936年(昭和11)に旧・陸軍の航空隊が測量用に撮影したものが現存している。それを見ると確かに、このお屋敷らしい建物の屋根が見てとれる。自由学園明日館の建設から、15年後の姿だ。つづいて、1947年(昭和22)にB29から爆撃検証用に撮影された空中写真で確認すると、お屋敷は空襲にも焼けずにかろうじて残っているのが確認できる。おそらく大正時代から、このライト風の建物は建っていたのではないかと思われる。大正期、このお宅に住んでいたのは、内大臣府秘書官で宮内省御用掛の工藤壮平だった。

 昭和初期の空中写真を見ると、下落合415番地の広い工藤邸には2棟の建物が写っている。東側の1棟=ライト風住宅はもちろん工藤壮平邸だが、西側の1棟は工藤義雄邸となっていた。工藤義雄は、陸軍において二葉会(二葉亭で会合を開いた派閥)の設立時から属する、代表的な「統制派」の将校だ。陸軍士官学校では東條英機と同じ17期の卒業となっている。『落合町誌』(1932年・昭和7)が編まれたときには、陸軍歩兵大佐・教育総監部庶務課長で、すぐに少将へと昇進して歩兵第102旅団(東京)の旅団長となり、のちに上海へと上陸。この「道」は、南京攻略戦へとまっすぐにつづいている。
 
 F.L.ライトが逗留したとすれば、1920~21年(大正9~10)ごろだろうが、そのころから現在のようなライト風デザインの建物だったかどうかは不明だ。自由学園明日館が建設されたあと、その意匠を気に入った工藤家が、ライトの建築を模してすぐに建てたのだろうか。あるいは、明日館建設ではライトの右腕であり、1927年(昭和2)に自由学園講堂を手がけた遠藤新(あらた)が、工藤邸の建設に深い関わりがあったのかもしれない。なぜなら、遠藤新によって設計された目白ヶ丘教会が1950年(昭和25)に竣工するが、工藤邸からわずか50m弱しか離れていないのだ。どうしても、そこになんらかの関連性が想起されてしまう。
 ライトや遠藤新との関連があるとすれば、年代からいっても陸軍の工藤義雄ではなく、宮内省つながりの工藤壮平のほうだったろう。彼は、学習院とも関係が深かったようだ。ひょっとすると、宮内省が設計して1928年(昭和3)に建てられた学習院昭和寮(現・日立目白クラブ)にも、彼はなにかしら関与していたのだろうか。工藤邸から学習院昭和寮まで、こちらもわずか80m弱と至近距離だ。
 
 工藤壮平は、能書家として有名だった。いくつかの記念碑の文字を依頼されて書いたり、天皇家の子弟などに書道を教えたりしている。現在は、とうに工藤家は転居して、お屋敷にはまったく別の方々が住まわれている。東側の工藤義雄邸も、すっかり低層マンションへと建て替えられてしまった。でも、ライト風デザインの西洋館の中で、書をしたためる工藤壮平の姿を想像すると、そのミスマッチがなんとも面白い。

●区の職員が何度も訪れるわけ。
上記の記事は、わたしの「事情明細図」と空中写真の読み取りミスから、住宅を1軒ずれて認識していた際に書いたものです、訂正は当記事の2日後、下記へ掲載しています。
「F.L.ライトの下落合での逗留先は?」その後Click!

■写真上:ライト風の近代主義デザインが取り入れられた旧・工藤邸。
■写真中:空中写真は、1947年(昭和22)に上から見た同邸。空襲による延焼を、ギリギリでまぬがれているのがわかる。左は同邸を正面寄りから、右は東に張り出したウィングの様子。窓ワクのデザインなどに、F.L.ライトの模倣デザインが顕著だ。
■写真下:左は、F.L.ライト設計の自由学園明日館(1921年)。右は、遠藤新設計の講堂(1927年)。ともに武蔵野鉄道の旧・上屋敷駅Click!近くに建っている。