1923年(大正12)、学習院は学生の全寮制システムから、希望者入寮制へと教育方針を転換した。そしてキャンパス内ではなく、どこか近くに寮を建設しようと周辺を物色し始める。でも、関東大震災の発生により、寮建設計画はすぐに頓挫。ようやく、下落合の急峻なバッケ上にあった帝室林野局の所有地を譲り受けて、宮内省技師の権藤要吉・設計のもと、学習院高等寄宿舎の建設が始まったのは1926年(昭和元)のことだった。
 「近衛邸の敷地を譲り受けて建てられた」と書かれる解説が多いが、この土地が近衛家の敷地だったのは大正半ばまでで(地図では大正7年の記載が最後で、大正12年の地図にはすでに近衛邸の記載がない)、その後、近衛家から帝室林野局へと売却されていた。だから、寮舎建設の計画が立てられたときは、同局の所有地だったことになる。当時流行していたスパニッシュスタイルの建物は、本館をはじめ、寮舎×4棟、舎監棟、門衛棟の計7つの建物で構成されていた。また、現在も残っているが2面のテニスコートが設置され、1928年(昭和3)に完成した。開寮後1年ほどしてから、「昭和寮」という名称が付けられている。
   
 内部は、学生寮というにはあまりに贅沢な造りで、本館を例に取ると、談話室や娯楽室、大食堂、院長室、舎監室、厨房などが設けられ、壁や天井、柱、階段、ドアなどいたるところにアールデコ調の凝ったデザインが見られる。大食堂(現・大広間)は、まるで一流ホテルの高級レストランなみの装いで、当初からバーコーナーさえ備えられていたというから、単なる学生食堂を連想していると愕然としてしまう。当時の学習院の学生が、うらやましい限りだ。


 親から独立して東京へともどり、下落合近くの6畳に小さなキッチンの付いたアパートを借りて、学生生活を送っていたわたしは、いったいなんだったのだ?・・・と思いたくなるほどの、「ふざけた」贅沢さがしのばれる。さすが、皇族・華族学校の学生寮なのだ。日米開戦が間近な1940年(昭和15)ごろ、寮生のタバコの火の不始末で火災が起きたとき、学習院当局はヒヤリとしただろう。戦時中に寮は閉鎖され、戦後は教職員の宿舎や、本館は一時校舎としても使われていたそうだが、1953年(昭和28)に日立製作所へと売却された。

 「ご近所の方ですよね。でしたら5名様以上であれば、いつでもお待ちいたしております。ただ、ご予約は2週間前にしていただければ・・・」と、案内のお姉さんは言う。ある程度、料理メニューの指定もできるそうだ。日立目白クラブでは、日立関係者以外の一般のお客はお断りなのだが、地域の歴史あるシンボル的な建物のひとつなので、「ご近所」ならばOKということになっている。この「ご近所」が下落合のみなのか、それとも中落合や目白のほうまで含むのかは知らないが、とびきり高そうなフルコースの写真を見せられたあとでは、「ご近所」のわたしは食べに行くのに二の足を踏んでいる。
 では、現在の日立目白クラブの外周と内部Click!を拝見してみよう。

■写真上:日立目白クラブ(旧・学習院昭和寮)の本館正面。
■写真中上:左から、菊紋がデザインされたドアノブ、寮の1棟、大食堂(大広間)の入り口ドア、地中海に育つオリーブをデザインしたと思われるステンドグラス。ブドウをデザインした作品もある。
■写真中下:全寮制だったころの、キャンパスにあった学習院寄宿舎。乃木希典が院長だった1909年(明治42)に完成し、上は総寮部で下が第3寮棟。
■写真下:右斜めフカンから眺めた、戦後すぐの学習院昭和寮の全貌。左側にある2面のテニスコートが、食糧不足で畑にされているのが見える。