江戸からつづく菓子屋(和菓子)が数多い中、明治以降にこちらへ本店を移した新参で、「こいつぁうめえ!」と東京人の舌に抵抗なく受け入れられたのは、「虎屋黒川」がピカイチだろう。虎屋の硬くて真っ黒な煉り羊羹は、ちょっと見「こんな野暮なもんが食えるか!」と、親父あたりは言いそうなのだが、文句も言わず「うまい」と渋茶片手に賞味していた。かくいうわたしも、虎屋が作る本来型煉り羊羹、「夜の梅」と「おもかげ」は大好物なのだ。
 和菓子は、江戸期の元禄年間に大成されたというのが通説だが、虎屋は室町時代から京都で饅頭屋として営業していたようだ。1869年(明治2)に東京へと進出し、神田小川町から麹町、赤坂へと本拠を頻繁に移している。江戸の香りが強く残る新しい土地で、どうしたら製品が売れるのかと模索をつづけていたのだろうか。大正期に入ると、宣伝カーを使って和菓子を宅配するという、それまでは考えられない斬新な営業方針を採用している。どちらかといえば、当初は山手志向の事業展開だったように見えるのだが、虎屋の煉り羊羹が広く受け入れられたのは、山手ではなくむしろ下町、つまり生っ粋の江戸っ子たちが住む街だった。
 初めて出したアンテナショップのような支店が、銀座近くの元数寄屋町だったのも幸いしたのかもしれない。なぜ東京の町っ子に、虎屋の煉り羊羹が受けたのか想像すると、あの見た目ではなく味で勝負する、まるで京菓子らしからぬ虚栄や飾り気のなさ、曖昧さのないズドンと1本筋の通った勇ましい甘みと硬さ、そして、江戸の昔から汁粉好き甘味好きの多い、ことさら味にうるさい町っ子をうならせる、ほどよい小豆の風味の活かしかた・・・の3拍子ではなかろうか。「三笠山」や「○○最中」には顔をしかめる親父でも、虎屋の煉り羊羹は黙って口に運んでいた。まるで、江戸の昔から表店を張っていた菓子屋のように下町で親しまれ、生活に溶けこんでいった。
 
 この「虎屋黒川」の媒体広告は、1953年(昭和28)のもので全体がかなり右へと傾いている。当時、手作りだった版下が曲がっているわけないから、印刷に問題があったのだろう。戦後10年足らずのころのことだから、あまり問題にならなかったものか。菓子の名称には、煉り羊羹の定番「夜の梅」「おもかげ」、懐中汁粉の「小鼓」、最中の「ホールインワン」が挙がっているが、これらの製品は現在でもすべて現役のまま、一貫してまったく変っていない。こういう日和見しない頑固なところも、下町気質に受けがよかった理由なのかもしれない。ちなみに正式な社名は「(株)虎屋」で、「黒川」は代々の店主の姓だ。
 わたしは、和菓子を進んで食べることは少ないが、長命寺(桜餅)と虎屋の煉り羊羹だけは、目の前にあったら必ず手を出してしまう。もっとも、渋いお茶がセットになってないと困るのだが・・・。

■写真:煉り羊羹の定番「夜の梅」。小豆の切り口が、闇に浮かぶ梅の花のような風情なので名づけられたという。虎屋の商号にちなみ、野生のトラ保護活動は有名な話。