上の作品は、1920年(大正9)ごろに描かれた『目白の冬』と題された作品だ。『平磯海岸』と並び、中村彝の後期風景画の代表作とされている。中村彝の“下落合風景”は、佐伯祐三のあっちこっちへと飛びまわって、思わず「こんなところを描いてたのか!」・・・と、ついうなってしまう『下落合風景』とは異なり、描画ポイントの特定がとてもカンタンだ。
 中村彝は、1916年(大正5)に下落合へアトリエを建てて引っ越してきて以来、肺結核の病状が悪化し、スケッチブック片手に自由に付近を散歩する余裕がなくなっていた。だから、彝の「目白」を描いた絵やスケッチがあると、たいがいアトリエからほど遠くない場所であることがほとんどだ。この『目白の冬』も、はたしてアトリエからわずか50mほどしか離れていない、下落合565番地または504番地の空地か畑から、北西方向を観ながら描いたものだ。

 上の地図は、中村彝がアトリエで病死したあと、2年後の1926年(大正15)に作られた「下落合事情明細図」だ。原版は、まるで世界地図のようにB0判サイズだけれど、そこにはすでにこの世にいない中村彝の名前がクッキリと記載されている。地図を制作する際、彝の死を惜しんだ地元の誰かが、あえて名前を残した可能性が高い。565番地あるいは504番地の空地ないしは畑は、アトリエの目と鼻の先だった。
 正面に見えている建物、右側の建物と角度が少し合わない大きな西洋館は、下落合にお住まいの方なら誰でもご存じの宣教師館(メーヤー館)Click!、現在の千葉へと移転が決まっている聖書学校だ。当時は、屋根の色は同じに見えるが、いまと違って壁面はグリーンではなく、薄い黄色かベージュに塗られていたのがわかる。宣教師館は、1912年(大正元)ごろに建築されていたので、築8年後ぐらいの姿ということになる。また、右の建物は宣教師館と同じ敷地にあった英語学校だ。現在は、ピーコックストアの入るビルの下になっている。
 
 空中写真で見ると、双方の建物の位置関係がよくわかる。左は1936年(昭和11)、中村彝の死後12年ほどあとの空中写真で、右は1947年(昭和22)のもの。英語学校(もちろん戦時中は廃校)は空襲で焼かれているが、宣教師館(メーヤー館)は健在なのがわかる。戦時中、ここにいた米国人のクレイマー宣教師が、憲兵隊が見張る聖母病院にかくまわれていた話は有名だ。★ もちろん、林泉園北側の中村彝のアトリエも焼けていない。昔からここにお住まいの方は、空地または畑でメーヤー館をスケッチする中村彝を、見かけているかもしれない。・・・といっても、すでに90歳を超えるお年の方のみに限られてしまうが。
★その後、クレイマー宣教師(女性)が「聖母病院に潜伏した」というのは、地元の誤伝ないしは“伝説”である可能性がきわめて高いことが判明Click!している。
 
 メーヤー館の壁が、薄いグリーンに塗られたのは80年代以降だろうか? 『目白の冬』では、煙突が鮮やかなレンガ色で描かれているが、この煙突はいまでもほとんど変わらずに残っている。中村彝も描いているメーヤー館が、下落合を離れてしまうのはなんとも惜しい限りだ。

■写真上:中村彝『目白の冬』(1920年)。多くの図録や書籍では1919年(大正8)の制作とされているが、中村彝『芸術の無限感』(岩波書店/1926年)では1920年(大正9)制作とされている。
■写真中:左が1936年(昭和11) 陸軍航空隊撮影の、右が1947年(昭和22) 米軍B29撮影の空中写真。陸軍航空隊が東京市上空へ侵入する際には、中村彝アトリエの屋根を目標にしたそうだが、当時、この2枚の写真がカラーで撮られてたなら、彝のアトリエとメーヤー館の屋根は鮮やかな赤色をしていただろう。
■写真下:宣教師館(メーヤー館)の現状。建築当初の薄黄色ではなく、白壁に窓枠がグリーンの時代を経て、いまの壁面は薄緑色で塗られている。