日本におけるF.L.ライトの住宅作品は、わずか4つというのが定説だ。4戸のうち、計画倒れに終わった井上子爵邸(東京)を除くと、3戸が実際に建設され、関東大震災で崩壊した箱根の福原有信(資生堂)の別邸をさらに除けば、世田谷の旧・林愛作邸(八星苑)、および芦屋の旧・山邑邸(ヨドコウ迎賓館)のふたつが現存するのみとなっている。
 つまり、従来のアカデミズムの定説からいえば、「下落合にF.L.ライトの住宅なんか、あるわけがないじゃないか」・・・ということになる。わたしも、当初は「あるわけないじゃんか」(下町言葉です)と思っていたのだけれど、その後、重ねて伝わってくる旧・杉邸に関するいくつかの情報が、いやにリアリティがあって気になったのだ。だから、「気になる下落合」で書くことにした。
 最初は、帝大医師の開業用病院として設計されたというが、完成早々に家族の健康上の都合から転地をよぎなくされてしまう。これがスタート時の伝承で、すぐに空き家(名義はそのまま)となってしまうこの邸宅を、当時、杉邸の設計者(つまりF.L.ライト)が、手がけていた「帝国ホテル」の作業員チームの宿泊施設として借り受け、利用していた・・・というのが第2段階。さらに、大正期から伝承された物語は、昭和初期から戦中へと連綿とつづいていく。住んでいた方のマイナスになるようなエピソードも含めて伝わっている点に、まるっきりの嘘とは思えないリアルな肌触りを感じてしまう。

 わたしの書いた記事Click!について、ライト建築に関しては日本でも屈指である権威の方から、ある方を通じてご丁寧なリプライをいただいた。(ありがとうございました) もちろん、旧・杉邸は「F.L.ライト建築でも遠藤新建築でもありえません」・・・というものだった。さて、わたしは「やっぱり、そうでゃんしたか」と納得できたかというと、必ずしもそうではないのが正直なところなのだ。
 わたしの世代は、ちょうど10歳ちょっと年の離れたお兄ちゃんやお姉ちゃんたちが、高校や大学で盛んに「権威」を否定していたころに、幸か不幸か子供時代を送っている。そして、お兄ちゃんやお姉ちゃんたちから耳元へ吹き込まれた「権威」に対して、いまでもひねくれた警戒心がムクムクと起きるのは、きっと子供時代に植えつけられた“刷り込み”のせいなのだろう。
 少し前の映画で、「事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きているんだ」・・・というセリフがあった。わたしは性格的に、どちらかといえば「机上」よりも、「現場」のほうを優先して考えるタイプだと思う。だから、「現場」に延々と伝わってきた旧・杉邸の伝承に強く惹かれ、尊重したくもなるのかもしれない。ましてや、この時期、ライトは建築家としては“どん底”の時代であり、ほんの少しでもおカネが欲しくて割のいい設計の「やっつけ仕事」(お住まいのS様にはたいへん失礼ですが)のひとつも、アルバイトとして引き受けはしなかったか?・・・という想像もはたらく。
 そういえば、シカゴのサリヴァン設計事務所をクビになったのは、子育てでおカネに困ったライトが、事務所を通さずひそかに個人住宅の設計アルバイトに何度も手を出したからではなかったか。日本で同じようなアルバイトをしなかった・・・とは、言い切れないような気がするのだ。

 でも、こんなことだってあるのだ。1940年代の後半、ついに日本のアホウドリは絶滅した・・・と学会で発表された。「ほんなことゆ~たかて、あんた、うちん目の前の海でぎょ~さん飛んどりますがな」(これは大阪弁)と、1950年代の初めには“再発見”されている。(ほんまはここんとこ、広島弁で書かなあかんとこやし) ニホンカワウソにも、同じような経緯があった。「現場」では当たり前のことでも、学会の「机上」では信じられない出来事が起きることだって、ごくごくたま~に、ほんとに稀にはあるかもしれない。
 地元に連綿と伝わってきた貴重な口承伝承のほうに、わたしはどうしてもより深く、謙虚に耳を傾けてしまうのだ。新宿区の教育委員会がどのような資料や記録(公文書)をお持ちなのか情報開示請求をしてみたところ、残念ながら「不存在」だった。過去に何度か、区の方が訪れているということなので、職員の個人的な記録は過去にあったのかもしれない。公の記録がないのは、建物内部の「記録調査」を一度もしていないのが要因なのだろうか。

■写真上・中:ともに旧・杉邸の意匠。
■写真下:自由学園明日館の食堂デザイン。旧・杉邸の内装も、一度ぜひ拝見したいものだ。