中村彝の『エロシェンコ氏の像』を観に、東京国立近代美術館へ出かけたら、たまたま中原悌二郎の代表作『若きカフカス人』(1919年・大正8)も同時に展示されていたので、美術館の許可を得て撮影する。この作品も、新宿中村屋に寄宿していたロシア人のニンツァーをモデルに、中村彝のアトリエで制作されたものだ。中原悌二郎が彝のアトリエを借りて制作に励んでいたころ、当の彝は茨城県の海辺(平磯海岸)へ療養に出かけていて留守だった。
 1909年(明治42)に、新宿角筈に完成した荻原守衛のアトリエを、中村彝と中原悌二郎、そして鶴田吾郎の3人は連れ立ってよく訪れていた。3人は、ロダンに師事して帰国した荻原碌山を中村屋で知るようになり、強くインスパイアされたようだ。荻原を通じて、中村彝はあこがれていたレンブラントの詳細を、中原悌二郎はロダンを知り、大きな衝撃を受けることになる。画家をめざしていた中原悌二郎は、同年にロダン作「考える人」の写真を買い求め、翌年の1910年(明治43)には彫刻家へと転向した。荻原も最初は画家をめざしていたので、同じような経緯をたどったことになる。
 1919年(大正8)の7月、避暑をかねた療養の旅で留守だった中村彝のアトリエに、中原悌二郎は立っていた。目の前には、「なにをしていいのかわからず目的もない」と世界中を旅行している、60年代の言葉でいうとフーテンのようなロシア人青年ニンツァーがいた。ニンツァーを中村屋に紹介し、世話を頼んだのは鶴田吾郎と中原悌二郎だった。中原は、この青年の“頭部”を彫刻にしたいと考えたのだ。ニンツァーは中村彝のアトリエへ通い始め、1週間ほどはおとなしくモデルになっていたようだが、少しずつ形になっていく粘土像を見て、「まるで鬼のようだ」と怒り出した。
 中原悌二郎がいないところで、ニンツァーは新婚の連れ合いである中原信(伊藤信)へ怒りをぶつけ、制作途中の粘土像を壊すとまで言い出した。中原悌二郎は壊されてはタイヘンとばかり、未完成の像を彝のアトリエから自宅へと持ち帰り、さっさとブロンズ屋へ発注してしまう。こうして、未完の『若きカフカス人』は“完成”し、第6回院展へ出品されて同展の代表作となった。いや、近代彫刻におけるひとつの頂点作品とまで言われるようになった。
 
 中原悌二郎が、彝のアトリエで腹を立てたニンツァーと格闘しているころ、当の中村彝は平磯海岸でどうしていたろうか? ちょうど同じ時期に、中原悌二郎にあてた手紙が残っている。
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 僕も今度はここになるべく長く落ち着いて、出来るだけの養生をし度いと思つて居るが、若しそれでも大してよくならないやうなら、僕の体はもう愈々駄目だなのだと思ふより外ない。それはさうと君の制作は捗りましたか。毎日午後やつていると言ふあの露西亜人の肖像を僕は少なからず期待して居る。何か変わつたことがあつたら知らせてくれ。信さん、戸張さん、金平さん、龍門氏に宜しく。
                            (大正8年7月11日「書簡・中原悌二郎あて」より)
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 中原悌二郎は、ニンツァーをモデルにした制作を、中村彝へこと細かに知らせていたようだ。彝は、平磯海岸で自分の病気に諦観のようなものを抱き、以降、二度と転地療養には出かけなくなってしまう。「あとわずかしか残されていない」と感じたのだろう。
 ところが、わずかしか残されていない生命は、中原悌二郎のほうだったのだ。1921年(大正10)3月28日に、8回の喀血に襲われた彼はあっさりと逝ってしまった。中村彝と同じ病気だった。中原の突然死は、岡崎キイの配慮で病状が重くなっていた中村彝には伏せられた。だが、岡崎キイはうっかり配達された新聞を渡すミスを犯してしまう。台所の近くにいたキイは、中村彝の叫びと新聞をズタズタに引き裂く音を聞いている。中村彝は高熱をおして、親友の死を悼んだ「中原悌二郎君を憶ふ」を、3日間にわたって東京朝日新聞に連載した。
 
 東京国立近代美術館には、中村彝の代表作とともに中原悌二郎の作品も同時に展示されていた。同じアトリエで制作された『エロシェンコ氏の像』と『若きカフカス人』は、隣り同士の部屋の同じ壁際に並んでいる。『若きカフカス人』の手前には、中原悌二郎が強い影響を受けた荻原碌山守衛の『女』(1910年・明治43)が展示されていた。この『女』のモデルは、相馬黒光といわれている。
 親友の死によって、いったんは大きく気落ちした中村彝だが、彼にはまだ少しの時間が残されていた。岡崎キイの献身的なサポートにより、最後の力をふりしぼって、彝は晩年の傑作を次々と産み出していく。

■写真上:東京国立近代美術館に展示中の、中原悌二郎『若きカフカス人』(1919年・大正8)。
■写真中:左は、手前が荻原守衛『女』(1910年・明治43)で奥が『若きカフカス人』というレイアウトで展示されている会場。右は、中村彝の生涯の親友だった中原悌二郎。
■写真下:左は、『若きカフカス人』を真横から観たところ。右は、制作された中村彝アトリエ。