ここに、珍しい写真がある。明治末、1910年(明治43)ごろに撮影されたテニスコートの写真だ。このテニスコートは早稲田大学の運動場、のちの戸塚球場(安部球場)に接していた敷地に造られた。当時流行のパナマ帽をかぶりながら、テニスを楽しむ人たちが写っている。撮影角はほぼ北を向いており、背景に見えているのは神田川からせり上がる目白崖線だ。

 中央の、やや左手に見えている大きな西洋館が石本邸。そのさらに左手には、小布施邸がかすかに見えている。いまでも目白台には、小布施坂という名称が残っているが、この屋敷に住んだ小布施新三郎の名前にちなんだものだ。のちに小石川区となったこの屋敷で、歌人で小説家だった長塚節(たかし)の通夜が行われた。
 写真の右手には、大きく細川邸の屋敷森(現・新江戸川公園)が拡がっているが、細川邸自体は屋敷森に隠れて見えない。写真の中央あたり、石本邸から東づたいに、空中写真から小ぶりのサークル、というかほぼ正円形の繁みが残されているのが、1936年(昭和11)の空中写真から確認できる。当時は細川邸の敷地内、現在は目白運動場の南端、ちょうどプールがある近辺だ。このプールの東側を通る坂は「幽霊坂」と呼ばれ、神田川沿いの道から目白通りへと抜けているが、当時は上から下ってくると池の手前で途切れていた。また、貫通後の道筋自体も、途中で区画整理が行われたものか、いまの幽霊坂とは角度が微妙に異なっている。

 地形や周囲の状況から判断すると、この繁みは斜面に丸く盛られた築山のように見てとれる。斜面下からの傾斜を利用し、こんもりとした円形の山を築いたような感じなのだ。1936年(昭和11)の写真では、正円に近い樹木が繁っているのがわかるが、1947年(昭和22)の写真ではすでに樹木が半分ほど伐られてしまい、平地を拡張するためか地ならしが行われていたのがわかる。この敷地拡大の作業が、戦後のものか、あるいは戦前から行われていたのかは不明だ。
 このように、空中写真の地表面を眺めていると、焼け跡にはっきりとしたサークルを確認できる箇所もあれば、今回のケースのように樹木に覆われていて判然としないが、どうやら人工的な匂いがするサークルも存在している。より仔細に観察すれば、神田川沿いにはこのような“怪しい”箇所を、さらに多く発見できるだろう。江戸期以前から「百八塚」と名づけられ、神田川沿いに広く展開していた、おそらくは大小無数の古墳群は、いまの早稲田界隈にはじまり下落合や上落合をへて、大久保近辺にまでおよんでいる。そのほとんどが、十分な調査もされずに崩され、農地あるいは宅地、さらには道路へと開発されていった。


 特に、江戸期ではなく明治以降、綿密な調査を行おうとすれば可能だった環境でも、神田川流域にかろうじて残ったいくつかの塚は、いまから見れば非常にずさんな、通りいっぺんの調査で「古墳だった」と認定されているにすぎない。これは、「重要な古墳が関東以北にあるわけがない」・・・という、明治以降の誤った史観と偏見によるものだ。戦後も同様の誤りをつづけていたら、稲荷山古墳の金象嵌入り鉄剣が発見できたかどうかさえも疑わしい。
 戦後、新たに関東の巨大古墳や古墳時代の遺跡が次々と発掘され、おそらくは日本海側を通じて大陸との直接交易からだろう、農作技術(輪作農法など)や牧畜技術(目黒=馬畦など)が、当時のナラ地方(近畿圏)を凌駕していたことがわかりつつある。
 「百八塚」は、神田川の流れそのままに南西から東にかけて、「Г」の字型に展開しているとみられるが、その「Г」型の中心地帯を形成するのが落合地区(下落合/上落合)だ。この流域では、驚くほどの密度でサークルが密集しているのを、これまで何度か見てきた。
 そろそろシリーズを終えるにあたり、次回はもう1枚、珍しい写真を入手したのでご紹介しよう。

■写真上:左は、目白台から早稲田方面の眺め。右は、旧・細川邸の新江戸川公園にある、池の上からの眺め。正面建物の裏側が「幽霊坂」の道筋であり、この右手すぐのところにサークルがひとつ見えていた。現在は、目白運動場の敷地になっている。
■写真中:明治の末に撮影された、早大のテニスコート。フレームを外れてしまうが、テニスコートの右手には「早稲田配電所」(のち変電所)があり、下落合の田島橋のたもとにある松本竣介が好んで描いた「目白変電所」Click!と近似した建物が、この写真が撮られる数年前、1907年(明治40)に建てられている。
■地図:1910年(明治43)の「早稲田・新井地形図」。
■写真下:上は1936年(昭和11)、下は1947年(昭和22)の空中写真。