1926年(大正15)10月10日から15日までの6日間、連日ぶっつづけで『下落合風景』シリーズを制作していた佐伯祐三の足取りを、当時の「制作メモ」Click!からたどると面白いことがわかる。それは、第一文化村から第二文化村の尾根道を、風景画材を求めて毎日行き来していたことが、おおよそたどれるからだ。
 10月10日 「森尾さんのトナリ」(20号)制作
 10月11日 「テニス」(50号)制作(No.dd)
 10月12日 「小学生」(15号)制作
 10月13日 「風のある日」(15号)制作
 10月14日 「タンク」(15号)制作
 10月15日 「フビラ村の道」(15号)制作
 まず、10日(日)に書かれた「森尾さんのトナリ」。この「森尾さん」ちがどうしても見つからない。借地の上に住宅を建てれば、地図には地主名が表記されてしまうので、なかなか当時の詳細図ではわからないのだけれど、おそらくは目白文化村Click!内か、その周辺のお宅だと思っている。継続して調べてみたい。11日(月)の「テニス」。これは、第二文化村の南端にある益満邸の敷地に造られたテニスコートClick!で、作品はのちに落合小学校へ寄贈されている。この絵に描かれた日本家屋は、戦災をまぬがれて戦後まで建っていた。
 12日(火)の「小学生」。これは、落合小学校の生徒を描いたもの。第一文化村の中央生命保険(旧・箱根土地本社)、または第四文化村近くの校舎か運動場の近くで描いたのだろう。個人に秘蔵されているのか、あるいは戦災で失われたものか、わたしはこの絵を観ていない。13日(水)の「風のある日」は後述するとして、14日(木)の「タンク」。第一文化村は南端の外れに、第二文化村は北端に、文化村水道の水圧を確保するために配水タンク(水道タンク)が造られた。当時の地図にも描き込まれ、また空中写真にもはっきりと写っている。佐伯は、このどちらかのタンクを描いたのだが、わたしは「小学生」→「風のある日」→「タンク」の流れから、第一文化村の配水タンクだと考えている。これらの作品に描かれた風景は、おそらくかなり近接していると想像する。


 そして、15日(金)「フビラ村の道」。フビラ(フヴィラ)というのは、北欧で盛んに建てられた大型別荘建築(フィンランドに多い)のことで、三角の尖がり屋根が特徴的なデザインだ。佐伯祐三は、文化村のモダンな住宅街に通う道のことを、シャレて「フビラ村の道」と題したのだ。大正15年現在で、洋風の家々が多く建ち並んでいたのは、第一文化村か第二文化村のどちらかであり、中でも第一文化村を南東から北西へと横断する弁天通りClick!、あるいは第一文化村から第二文化村へと縦に抜けるセンター通りClick!のどちらかではないかと考える。
 11日(月)に「テニス」を描いている関係からか、佐伯は第二文化村の風景に馴染みがあり(つまり以前からロケハンをしていたことになり)、第二文化村のテニスコート沿い、西側の南北に走る道路を歩いたとき、第一文化村へと抜けられるセンター通りを目にして、後日に描こうと決めていたのではないか。去る9月19日に、第二文化村の北に隣接した「道」Click!を描いたときに、第二文化村をロケハンをしていたとも考えられる。でも、「フビラ村の道」と題された文化村を描いたと思われる作品を、わたしはまだ目にしていない。

 さて、問題の13日(水)「風のある日」。わたしは、上掲の作品がこれに当たると考えている。庭に植えられた樹木が、強風にあおられている様子がありありと描かれているからだ。前後の「小学生」と「タンク」から、だいたいこのへんでは?・・・とアタリをつけてみる。ここに描かれた家は、文化村内のお宅ではない。そう断言できるのは、箱根土地が造成した文化村の敷地は、すべてにわたって道路と住宅敷地との間に大谷石による区画割り、または築垣が行われ、このような土がむき出しのまま木柵で土止めが行われたところなどないからだ。
 大きな窓のある手前が南、トイレの臭い抜きが立つ側を東北、そして目白崖線が見えないところを考慮すると、当然2棟の家は丘上になければならない。しかも、まだかなり空地のある様子が見て取れる。ちなみに、文化村内であれば下水道が完備していた、つまり水洗トイレだったので、このようなトイレの臭い抜きは必要なかっただろう。第一文化村と第二文化村の外周を探し、それらしい家並みに絞り込んだ。アタリをつけた近辺をもとに、古くから文化村近くにお住まいの方へうかがったところ、「ここではないか」とのお返事をいただいた。ちょうど、第一文化村の配水タンクがあった、すぐ西側に並ぶお宅だ。第一文化村のすぐ南の外側にある敷地で、左の2階屋が「小千谷さん」ちではないかとのことだった。(「清水さん」ちの可能性もあり) さっそく、当時の詳細図と空中写真とで調べてみる。
 あった。第一文化村の配水タンクのすぐ横に、確かにそれらしい道筋と家並みが見える。1936年(昭和11)の空中写真では、10年後だがすでに新築らしい住宅が建ち並んでいて、「風のある日」に描かれた2棟の住宅だけではなくなっている。でも、ちょうどこの絵が描かれた当時から建っていたらしい、2棟の家の位置関係がよく一致した。「小千谷さん」(または「清水さん」)のお宅を、1947年(昭和22)の空中写真で確認すると、屋根の形状がいま少しはっきりしないが、とりあえず地元の方の証言を最優先する。ただし、右奥の家は、山手通りの工事でひっかかってしまったものか、解体されていて空地となっている。
 
 もうひとつ、この位置からだと第一文化村の家並みが、少しぐらい見えないのはおかしいのでは・・・と考えたのだが、当時の地形をうかがって納得した。ここは、ほんのわずかだが手前へと傾斜しているのだ。住宅敷地の盛り土を見ても、それがいくらか感じ取れる。そして佐伯の描画ポイントの背後、つまりこの絵の反対側は、ゆるやかだが谷底へ向かう斜面となっていた。現在の十三間通り(新目白通り)が貫通しているあたりで、第一文化村からの道はやや南傾斜、第二文化村からの道はやや北傾斜となっていたポイントだった。つまり、「小千谷さん」ち(または「清水さん」ち)あたりまで行けば、第一文化村の家並みがよく見えただろう。
 「風のある日」と思われる作品に描かれた、左側の家は下落合1360番地にあった「小千谷さん」ち(または「清水さん」ち)、右側手前の樹木が大きく風に揺れる敷地は「田向(たむかい)さん」ち、右奥の家は佐伯が描いた当時に建てられたばかりなのか、居住者名は不明だった。では、この作品を場所特定の空中写真Click!に⑱として記載しよう。

■写真上:左は、1926年(大正15)10月13日に描かれた、「小千谷さん」ちとみられる「風のある日」。右は、現在の同所。十三間通り(新目白通り)の下になって、いまやなんにもない。
■写真中:上は、1936年(昭和11)に撮られた目白文化村界隈の空中写真。佐伯祐三が、『下落合風景』の画材を求めて散歩したコースが透けて見える。下は、佐伯祐三が「フビラ(フヴィラ)村」と表現した目白文化村。写真は第一文化村西側で、おそらくは箱根土地本社のビルからの撮影。
■地図:1926年(大正15)に作成された「下落合事情詳細図」より。佐伯祐三も『下落合風景』を描く際、この地図を見ながら歩いていたのかもしれない。
■写真下:左が、1936年(昭和11)の「風のある日」が描かれたとみられる、第一文化村配水タンクに隣接した「小千谷さん」ち(下落合1360番地)の上空。右は、1947年(昭和22)の同所。右奥の家が壊されて空地になっている。