下落合と近衛家とのつながりは、とっても古い。1900年(明治33)に、近衛篤麿が広大な敷地を購入して以来だ。だが、1904年(明治37)に篤麿が急死すると、大正の半ばには広大な土地や家財を次々と売りに出した。このあたりの事情は、近衛邸に蒐集されていた刀剣類の売立入札目録Click!の紹介とともに、以前にもここへ書いた。
 あとを継いだのは、のちに首相となる近衛文麿であり、近くには異母弟の指揮者で作曲家であった近衛秀麿をはじめ、近衛一族が下落合のあちこちに住んでいた。現在でも、下落合界隈と近衛家とは切ってもきれない関係にある。いまでも、下落合の山手線に近い一帯が、通称「近衛町(このえまち)」と呼ばれるゆえんだ。1932年(昭和7)発行の『落合町誌』の近衛文麿の項には、以下のように書かれている。当時の下落合では、まだ先代の近衛篤麿の記憶が圧倒的に強かった。町誌の文体は、ここにきて仰々しくいかめしいものに変わる。
 
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 先公は夙に独逸に留学して帰朝後学習院長、貴族院議長等の重職に任じ、又帝国教育会長、東亜同文会長等として公が邦家の輯寧に獻替したる大義は言ふまでもなく常に国事に心を秘め、社会風教の改善に力を致されしことは普く世人の欽仰措かざりし処である、而も本町の草創に居館を構へられてより本町文化の先達となられ、寄与貢献せられしことは我等の感銘であらねばならぬ。現主は篤麿公の嫡子にして明治二十四年十月を以て出生、三十七年一月二日先君薨去後襲爵仰付けらる、大正六年京都帝大法科大学政治科を卒業、現時貴族院議員にして火曜会に属し華冑界の新人たり、昭和六年一月勅命を以て貴族院副議長に任ぜられる。 (『落合町誌』人物事業編より)
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 このとき、いまだ「新人」と書かれている近衛文麿だが、わずか5年後に首相に指名され、日中戦争から太平洋戦争への道を歩むことになる。おそらく、『落合町誌』編纂当時の下落合の人々には、大正期からマルクス主義かぶれの、ちょっと毛色の変わった近衛家嫡子というイメージがいまだ強く、その後の軌跡など想像だにしえなかったに違いない。戦争中はおもに旧・ソビエト連邦ルート、あるいは中国の国民党政府ルートを通じて和平工作をつづけ、憲兵隊からはスパイを送り込まれ常時監視されていた。吉田茂は逮捕されてしまうが、天皇あての「近衛上奏文」(敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候)は、改めて書くまでもなくあまりにも有名だ。このあたりのテーマは、つい先週の朝日新聞(3/25)にも掲載されたばかりだ。
 はたして、近衛文麿は下落合にいつまで居住していたのだろうか? 1932年(昭和7)まで落合町民としての記載があるから、このころまで下落合にいたことは確実だ。1938年(昭和13)に、当時90歳だった西園寺公望により「荻外荘」と名づけられた、さらに東京郊外の荻窪の地へ別邸を建設しているので、ちょうどそのころに引っ越しをしたものだろうか。ご近所の藤田様と今井様のご好意で、その近衛邸「荻外荘(てきがいそう)」にお邪魔をしてきた。ほんとうに臆面もなく、どこへでもひょいひょい気軽に出かけてしまう、わたしは根っからのお邪魔虫だ。(汗)
 
 
 現在は、当主・近衛通隆様ご夫妻がお住まいの「荻外荘」だが、庭の糸桜(枝垂れ桜)がことのほか美しかった。糸桜は“近衛の桜”という表現があるほど、古典上でも日本史的にも有名だ。近衛邸と枝垂れ桜の縁(えにし)は、洛中洛外図屏風の中にも描かれているとおり、とてつもなく古い。室町幕府の3代将軍・足利義満が、近衛邸の枝垂れ桜を欲しがった・・・なんてエピソードまで残っているので、もう気が遠くなるような昔からだ。たそがれが迫ると、鮮やかにライトアップされる桜のあまりの美しさに、ついうっとりと見とれてしまった。
 わたしが不用意に、ついうっとりとライトアップの桜に見とれていた部屋というのが、居間からご案内いただいた近衛文麿の執務室兼寝室。つまり1945年(昭和20)12月16日(日)、GHQへ召喚される当日の早朝、毒を含んで自裁したその部屋だった。当時の新聞にも掲載された、あまりにも有名な“歴史の現場”だ。その当日は、GHQの関係者や巡査、新聞記者などが押しかけて、「荻外荘」全体が騒然としていただろう。
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 十一時過ぎ米軍騎兵第一師団の将校が数名来て奥に消へる。時折顔を出す家人も一切事件には無言で記者達を困らせる。公の遺骸はその寝室である中庭に面した十二帖の日本間にそのまま安置されてあり枕頭には千代子夫人次男通隆君はじめ最近欧州から帰った令弟秀麿子のほか昨夜から泊まりがけでゐる親類の大山夫妻、島津公夫妻、水谷川男夫妻や後藤隆之助、元内閣書記官長富田健治、作家山本有三、細川護貞氏等がつめかけており午後三時吉田外相もかけつけた。巣鴨拘置所に出頭すべき十六日を控へ荻外荘の近衛家の最後の歓談は深更午前二時頃まで続いた。
 集まるもの千代子夫人、次男帝大生通隆君、先程帰国以来ここに滞在する令弟秀麿子爵夫妻、令嬢、それに長女昭子さん(島津忠秀氏夫人)令妹の大山柏公夫人や水谷川男爵夫妻も加はって武蔵野の凍てつく寒気迫る公の居間にこの夜だけは何時までも電燈がついてゐた。   
                                  (「毎日新聞」1945年12月18日より)
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 長押上の扁額には自筆の書が掲げられ、仏壇の上には「黙」という大きな文字が彫られているのがとても印象的だった。仏前にお参りをさせていただいてから、室内そして部屋から望む桜を撮影させていただいた。台湾ヒノキをふんだんに用いて建築された「荻外荘」は、70年近い時間の流れを経て、たいへん落ち着いた美しいたたずまいを見せている。
 わたしがつい飛びついてしまうような、古い写真もお見せいただいた。さっそく、デジカメで複写させていただく。「荻外荘」の完成時に、広大な芝生の拡がる庭園を写した写真。近衛家の女性たちが、庭を散策している様子が写っている。本来は、善福寺川の向こう側まで近衛邸だったものが、戦後GHQにより“不在地主”ということで大きく削られてしまったとのことだ。複写したデジカメを手に取り、「ほほ~ぉ」と液晶画像を見て感心されていたのが印象的。わたしの実につまらない質問にも、近衛様はとてもていねいに答えてくださった。

 ご馳走になったうえに、わざわざ玄関の外までお見送りいただき、まったくのお邪魔虫のわたしはたいへん恐縮してしまった。居間や玄関などでご夫妻のポートレートを撮影したので、後日お礼状とともにお送りしようと思う。「荻外荘」をあとにすると、桜酔いした頬に夜風が気持ちよかった。

■写真上:「荻外荘」の庭に咲き乱れる、居間から望むみごとな“近衛の桜”。
●地図:左は1910年(明治43)の早稲田/新井地形図、右は1925年(大正14)の落合町市街図。大正末の地図にははっきりと「近衛町」という文字が見え、道路も造られて分譲されているのがわかる。また、林泉園の南側には「近衛新町」という文字も記載されている。
■写真中上:左上は、国立歴史民俗博物館所蔵の洛中洛外図屏風(部分)。いわゆる最古の「歴博甲本」に描かれた“近衛邸の桜”。右上は、近衛文麿の執務室から眺めるライトアップされた桜。右側の紅色は避寒桜で、うっとりするほど美しい。左下は、90歳の西園寺公望揮毫による「荻外荘」の玄関額。この玄関の脇には、聨合艦隊司令長官・山本五十六との会談Click!が行われた応接室がある。右下は、完成した直後の「荻外荘」庭園。正面手前に見える樹木の向こう側が善福寺川で、庭園は対岸のはるか森林までつづいていた。
■写真中下:左上は、「荻外荘」の玄関口にある庭。右上は、ライトアップされた枝垂れ桜。左下は、近衛文麿が自裁した執務室。左側の畳のあたりが、当日の枕元にあたる。右下は、長押上にかかげられた文麿書の扁額。墨跡は、きのう書かれたように鮮やかだ。
■写真下:「荻外荘」玄関の近衛御夫妻。