すー@上落合さんのご教示で、佐伯祐三のもうひとつの作品「踏み切り」の描画ポイントが判明した。いつもの『下落合風景』シリーズではないけれど、間違いなくその延長線上に描かれた作品のひとつだ。わたしは、いくつかの線路が重なっているので、佐伯が当時スケッチに通った田端駅近辺だとてっきり思い込んだClick!のだけれど、先入観は絶対に禁物。すー@上落合さんの観察眼は、わたしなどよりもよほど鋭かったのだ。しかも、わたしは大正末のこの踏み切りの写真を、すでに佐伯の「ガード」Click!でわざわざ掲載しているのに、ぜんぜん気がつかないボケぶりだった。
 この踏み切りは、昨年に廃止されて、現在は線路をわたる歩道・自転車橋が完成している。それまでは、いくら待っても遮断機が上がらない、悪名高い“開かずの踏み切り”だった。それもそのはず、この踏み切りの線路は数分おきに電車が通る山手線であり、埼京線や湘南新宿ラインが併走するようになってから、さらに踏み切りの開く時間は激減した。もう、待つだけムダなので、目白駅前の目白橋や池袋駅手前のガード下を迂回する人たちもかなり多かった。でも、佐伯が描いた1926年(大正15)当時の情景を見ると、拡幅前なのだろう現在よりも踏み切りの幅がいくらか狭く、とてものんびりしているように感じられる。
 踏み切りの番小屋の背後には、壁面に看板が掲げられた民家がポツンとひとつ見えてる。その右側を歩いている、日本髪に和服を着たうしろ姿の女性のように見える人物は、これから前方のガードをくぐろうとしているのだろうか? このガードの上、山手線よりも高い位置を走る路線が、ひとつ手前の上屋敷駅Click!から終点の池袋駅へとつづく、武蔵野鉄道線(現・西武池袋線)だ。(客車運行は1929年・昭和4からと、ものたがひさんにご教示いただいた) 人物が歩いているあたりから道はふたつに分かれ、左の山手線とほぼ平行の道を行くとやがて池袋駅東口へ、ガードをくぐると当時は字(あざな)で大字雑司ヶ谷字御堂杉と呼ばれた現在の南池袋1丁目、あるいは大字高田字大原と呼ばれたいまの目白2丁目へと抜けられた。
 
 1936年(昭和11)の空中写真を見ると、まさにこの「踏み切り」にピッタリな情景が眼下に見おろせる。佐伯祐三は、すー@上落合さんが指摘されるように、下落合の「ガード」を描いてから山手線沿いの道を北上したのだ。そして、高田町大字高田字金久保沢の「目白風景」Click!のポイントを見つけてさっそく描いた。そして、さらに目白通りを渡って三春堂を左手に見ながら、現在の“F.L.ライトの小路”を歩き、武蔵野鉄道線のガードをくぐったところで踏み切りを発見して、にわかに創作意欲が湧いたのだ。(ライトの小路のガードが当時からあったかどうかは不明)
 1944年(昭和19)の空中写真では、踏み切りの向こう側に見えていた民家が、丸ごとなくなっている。鉄道の近くに建っていたので、空襲を想定した防空の観点から「建物疎開」をさせられたのかもしれない。「建物疎開」というと、なんとなく建物をどこか安全な場所へ移築したように聞こえるけれど、単に火災の延焼を食い止めるために打(ぶ)ち壊しただけだ。下町でも多くの家々が、「建物疎開」という名の打ち壊しで解体され、多くの住民が家をなくして悲しい想いをしている。でも、雨のように降りそそいだ焼夷弾には、「建物疎開」などほとんど無意味だったのだ。
 
 佐伯祐三は、落合町下落合だと思って描いた風景が、実は高田町高田だったことに気づき「目白風景」と題したのかもしれないけれど、この作品「踏み切り」は、当初から下落合ではないことを知っていて描いたものだろう。あえて名づけるとすれば、「雑司ヶ谷風景」だろうか。この線路沿いの道に展開する光景に、佐伯は強く惹きつけられていたようだ。あともう少し北へと歩けば、すぐに自由学園や師範学校Click!へと出ることができるのだが、佐伯祐三は自由学園明日館を、はたして目にしたのだろうか?
 ということで、『下落合風景』シリーズの番外編「踏み切り」を、突貫工事の付け足しでこしらえた描画ポイント空中写真Click!に加えてみた。

■写真上:左は、佐伯祐三「踏切り」(1926年・大正15)。右は、佐伯の描画ポイントから見た現在の様子。踏み切りは、すでに取り除かれて存在しない。
■写真中:左は、1936年(昭和11)の踏み切り。作品どおりの線路の角度や家屋の配置、あるいは道筋のかたちが見てとれる。右は、1944年(昭和19)の同所上空。踏み切り番の小屋はあるようだが、民家の姿が丸ごと消えて空地になっている。
■写真下:左は、1947年(昭和22)の踏み切り。線路をはさんで東側が焼け野原だ。右は、昭和初期の踏み切りの様子で、池袋方面から眺めたところ。