その昔、1970年代の後半ごろだろうか、映画の世界で「深いローカリズムはインターナショナリズムに通じる」・・・ということが盛んに言われた。これは、人口学者のゾーフィーが造ったいわゆる「第三世界」や、毛沢東の造語である「第四世界」の映画が、日本でも次々と紹介されはじめ、いままで目にしたことがなかった、さまざまな国々に生きる人々の日常を描いた作品が公開されたころと重なる。映画ばかりでなく、小説の世界でも似たような現象があったように記憶している。
 それは、世界じゅうのどの国でもよいのだけれど、その地域に密着した人々の生活や人生、嗜好やものの見方・考え方などを、ていねいにすくい取って描いていくと、実は地球上のどの地域に住む人々も、同じような普遍的テーマを抱え、同じような悩みや幸福感をおぼえ、悲喜こもごもの似たような生活を、日々送っているということに気づく・・・というものだ。つまり、その地域のことを知らずまったく縁のない人間でも、容易に共感することができ、たとえ思想信条や生活習慣が異なっていても、お互いどこかで理解し通じ合える・・・というような考え方だった。ローカリズムを突き詰めていくと、ある特異点を境にクルリと裏返ってしまい、いつの間にかインターナショナリズムに化けてしまう・・・ということなのだろう。
 わたしは同じような感覚で、ドラマツルギー(創作)としての「人」ではなく、ドキュメントとしての人の住む「町」に置きかえて、ときどきふっと考えてみる。地球上の地域を考えると、その極小単位としての「町」や「村」に伝わる人の記憶や記録をていねいにすくい取り、そこに暮らす(あるいは暮らした)人々の夢や喜び、怒りや悲しみ、憂いや愛おしみに想いをはせる。すると、ごく限られた狭いエリアである「町」の“物語”が、いつの間にかこの国の歴史そのものへと、知らず知らずに一般化されていくのに気づくのだ。
 
 目白・下落合に伝わる“物語”を多面的にすくい取って集め、やがて蓄積されたものを鳥瞰してみると、その先に見えてくるのは、「日本」がかつて歩んできた道そのものだ。いや、いまでも日本のどこかの町で起きているテーマもあり、また、ひょっとするとこれから再び、繰り返し歩むかもしれない将来の道さえ(たいがいは悪い方角への道なのだが)、ぼんやりと透けて見えてくるような気さえする。
 以前にもここに書いたけれど、「○○時代」や「○○世代」と、人はすぐに時間の流れを区切りたがる。そして、あたかもその過ぎ去った時間に、自分はまるで無関係のような気持ちになりたがる。いつのころからか、「いまそこにあるもの」を見つめること、「現在起きていること」のみを追いかけることだけが“新しい”と錯覚するようになった。でも、そのかんじんの「いま」が、過去から招来した現象の組み合わせであること、過去の“古い”ことを知らなければ、なにが“新しい”のかさえ判然としないこと、そして未来へ向けた新たな展望さえ描けないことに、案外気づいていないのではないだろうか。
 人の生や世代の連続は、まるで三角定規で線を引くようには区切れない。過去のさまざまな蓄積は、どこかで「♪ご和算で願いましては~」と一掃されてしまうものではなく、いま現在が過去の延長線上であると改めて認識することは、きわめて重要なことだと考えている。わたしにとって、過去の目白・下落合に古くから伝わる、ほんの些細な物語でもピックアップすることは、現在の目白・下落合を“新しい”眼差しで見つめ直すことにつながり、来たるべきこの町の新しい姿を垣間見られることに直結するのではないか・・・などと考えている。そして、狭い目白・下落合界隈に眠る物語の集積は、「町史」ではなく実は「日本史」そのものであることに、やがて、期せずして気がつくことになる。
 
 JAZZギタリスト・深沢七郎の小説に、『笛吹川』(1956年)という作品がある。甲斐国のとある小さな貧しい村の、なんてことない出来事を6世代にわたって描きつづけた長編小説だ。でも、この小説を読むと、戦国時代の大きな歴史のうねりが、直接戦闘を描いた凡百の“戦国時代小説”よりも、はるかにリアリティをともなって、直接ひしひしと“肌身”に感じられる。メディアは異なるが、小川紳介のドキュメンタリー映画『ニッポン国・古屋敷村』(1982年)にも同じことが言える。東北の凶作風「ヤマセ」が吹き抜ける古屋敷村は、現代日本の本質的な縮図であり、また人々の紡ぐ物語は「日本史」のまさに正鵠でもあるのだ。
 日本のどこにある町でも、そこに眠る物語を少しずつ帰納的に積み上げていくと、そこここに小さな「日本史」ができあがる。水俣には水俣の、平取(ビラトリ)には平取の、会津には会津の、江戸岬には江戸岬の「日本史」が眠る。その「日本史」が、抽象化され敷衍化されたはずの“中央”の「日本史」との間で、大きな乖離を生じないうちは、つまり実際に各地で暮らしている人々(民衆)の記憶や伝承、生活感などとの間で多大な乖離を生まないうちは、おそらく、日本はまだなんとか“大丈夫”・・・なのかもしれない。ことさら、“上”の視座から「歴史」を演繹的に人々へと押しつけ、「生活史」との間に大きなミゾができたときこそ、もっとも憂え警戒しなければならない事態なのだろう。
 目白・下落合は、東京地方という場所柄のせいか過去の日本の縮図であり、これからの東京を、あるいは日本の町を見つめる格好のプレパラートになるのではないか・・・、そんなことを考えながら、きょうも下落合の坂道をブラブラ歩いている。

■写真上:落合遺跡の関東ローム層から発見された、旧石器時代の石器類。相沢忠洋による岩宿遺跡の発見からわずか数年後のことで、東京の考古学会では当時、衝撃的な出来事だった。
■写真中・下:いずれも、目白・下落合界隈に残る近代建築の貴重な邸宅。旧石器時代からつづく地層の上に、さまざまな人々の暮らしが現れては消え、いまも連続して営まれている。