ようやく、「目白・下落合歴史的建物のある散歩道」マップが入稿できそうだ。わたしのいい加減なチェックから、三春さんClick!には校正でずいぶんご迷惑をおかけしてしまった。(汗) 刷了は、写真展のギリギリ直前になりそうだ。最近のインクジェットプリンタは発色がいいから、実際に4色分解されて印刷されると色が褪せて見えることがある。できるだけ、あやせさんClick!が描いたイラストの微妙な色合いが、忠実に仕上がりますように。
 この地図には、江戸期から昭和初期にかけて付けられた、目白崖線に伝わる坂名(ときに道名)をできるだけ採集しているけれど、下落合の崖線沿いには無名の坂道もけっこう残っている。そこで、坂名と通り名にちょっとイタズラをしてみた。
 まず、日立目白クラブ(旧・学習院昭和寮)の東側に、急激に落ちる坂道がある。自由学園明日館の2階建てバージョンのような、ライト風デザインの旧・佐野邸Click!が建っていた坂道だ。この坂の下、旧・高田町がほんの少し山手線の西側に入りこんだあたり、ちょうどいまの十三間通り(新目白通り)の山手線ガードがあるあたりを、亮朝院の西側と同様に「バッケ下」と呼んでいたという伝承がある。小字には残らなかったが、○○谷戸と同じように明治期以前の通称地名だったのだろう。だから、とりあえず目白クラブ横の急坂を「バッケ坂」と、マップへ勝手に入れてしまった。
 
 つづいて、「バッケ坂」の西。野鳥の森公園の脇にかよう、緑いっぱいの急坂。ここは昔から、地元では「オバケ坂」と呼ばれているので、この際そのまま坂名として記載してしまった。もともと、この坂も昔は「バッケ坂」と呼ばれていた可能性が高い。「バッケ坂」→「バケ坂」→「オバケ坂」(→ときに幽霊坂)という、東京に多い転訛なのだろう。わたしの学生時代は、いまの半分から3分の1ほどの道幅しかなく、両肩を樹木や生垣の枝に撫でられながら上ったものだ。野鳥の森公園(旧・S家本邸)は、目白崖線では宅地化が進みめったに見ることができなくなった、バッケ地形の典型例だ。
 
 次に、聖母坂を越えて佐伯祐三のアトリエ近く、第三文化村の尾根筋にある通り。この通りは、昔はなんて呼ばれていたのだろう? 明治末より徳川邸の「静観園」Click!があったから、「静観園通り」あるいは「牡丹通り」だろうか? それとも、“出前地図”にあるように「西坂通り」かな。勝手に記載してしまった道名は、もちろん「八島さんの前通り」Click!だ。(爆!) 佐伯祐三が描いた『下落合風景』で、おそらくもっとも多く描かれたのがこの通りの風景。たとえば、「佐伯祐三通り」なんて野暮な名称よりも、制作メモClick!から引いたこの名称のほうが、よほど気がきいて趣きがある。
 
 そして、最後は目白文化村。“弁天通り”と“センター通り”は、道筋を説明するためにわたしが勝手に名づけた名称なので、自分で却下。かわりに、第一文化村に代々伝わりつかわれている「オバケ道」を記載した。この道をほぼまっすぐに、第二文化村を縦断して西南西へと向かえば、現・中井2丁目南斜面の下の「バッケが原」Click!へと出ることができた。だから、ここも本来は「バッケ道」と呼ばれていたのかもしれない。
 
 こうして、マップ上にささやかなイタズラをしたのだけれど(それだけじゃない・・・という話もあるが)、いまさらながら「不動谷」や「諏訪谷」など、昔ながらの通称地名を入れるのを忘れたことに気づいた。「翠ヶ丘」は入れたのに・・・キリがないので、まあいいか。
 林泉園は、御留山の湧水源のひとつとしてしっかり入れた。もちろん、「下落合みどりトラスト基金」Click!が保存活動を展開している屋敷森には、ちゃんとタヌキたちもいて、区教育委員会の記録調査が進む中村彝アトリエClick!はいまだ個人邸であるにもかかわらず、その保存を願って佐伯祐三アトリエと同格扱いにしてしまった。マップ裏には、中村彝に関する解説も付記した。
 
 中山新宿区長にも、目白・下落合地区に残るこれらの貴重な近代建築の保存や、緑・景観・環境の保全のために、このマップをぜひプレゼントしたいと思っている。

■写真上:「目白・下落合歴史的建物のある散歩道」マップの表紙。
■写真下:上から「バッケ坂」(日立目白クラブ脇)、「オバケ坂」(野鳥の森公園脇)、「八島さんの前通り」(第三文化村)、「オバケ道」(第一文化村)、中村彝アトリエ。いま、なにかと話題の「八島さん」、勝手にお名前を拝借しましたけれど、佐伯メモに免じてご容赦を。どこかにおられましたら、佐伯祐三スケッチ目撃談などご連絡お待ちしています。