いちばん運用したいときにシステム不具合の嵐だと、ほんとうに書く気が失せてしまう。So-netブログさん、いい加減にしてください。きのうから、書いた原稿が三度も登録フォームのTimeOutエラーで行方不明になりました。しかも、わたしは「浮世絵風美人」サイトのponpocoponさんのもとへ、あたかもストーカーのように執拗なコメントを寄せつづけていることになっています。(汗)
 さて、1922年(大正11)に建てられた、近衛町に残る下落合の和洋折衷建築。建築当初は和建築のみだったが、昭和初期の文化住宅建設の流れをうけて、玄関脇の東側へ1935年(昭和10)前後に、洋式の応接室が設けられ、現在は和洋折衷のデザインとなっている。藤田孝様は、戦前からずっとこの邸宅に住まわれている。
 邸宅のあるところが、ちょうど大正前期まで建っていた近衛篤麿邸Click!の寝室にあたる。この寝室で、1904年(明治37)にまだ40歳の若さで、近衛篤麿は息を引きとったことから、藤田邸に隣接して近衛篤麿記念碑が建立されている。近衛邸の車寄せの大ケヤキClick!を前に、東に向いて大きな近衛邸の玄関があり、下落合を散策した若山牧水Click!の文章によれば、西へ向かって「一二町」(約100~200m)もえんえんと近衛邸の屋敷塀がつづき、明治末の「落合遊園地」(のちに林泉園)へと道がかよっていたことになる。この道とは、大正半ばより相馬子爵邸Click!黒門Click!があった通りのことだろう。
 
 
 藤田邸は、これまでに二度の災害を受けている。一度めが、建設の翌年に起きた関東大震災だ。当時は新築だったのと、下落合の崖線が長期間にわたって堆積したピラ川(平川)の河岸段丘なので地盤が強固だったせいか、下町に比べて揺れ方もかなり小さかったようだ。下落合の倒壊家屋は2棟と伝えられており、罹災地というよりも下町からの避難地域Click!となった。
 二度めの被害は、もちろん太平洋戦争だ。藤田様は、戦時中の鮮烈な記憶をお持ちだ。ひとつは、池袋上空で撃墜されたB29Click!が、火を噴きながら学習院の南側、いまの高田3丁目の「国産電機」へ落ちてきたこと。もうひとつが、屋敷のすぐ東側に250キロ爆弾が投下されたことだ。爆発と爆風の衝撃で、建物は大きく揺れたが、造りが頑丈だったせいか倒壊はしなかった。また、焼夷弾で発生した大火災からも、奇跡的にこの一画だけが島状に延焼をまぬがれている。

 わたしは幸運にも、藤田邸の改築前と改築後と二度にわたって見学する機会にめぐまれた。改築といっても、ほとんど建物の意匠はもとのままで、従来はアトリエとして使われていた和建築の畳敷き1階部分を、板張りのカフェに直されただけなので、イメージは以前とほとんど変わっていない。さっそく、カフェ「花想容(かそうよう)」でコーヒーをいただいてきた。李白の詩からだろうか、和服姿の“楊貴妃”がコーヒーをいれてくれる。
 
 
 わたしは一度、和建築のほうは拝見しているせいか、今回は洋建築の応接室が強く印象に残った。両手で取っ手を持ち、上下にスライドさせながら開け閉めする窓なのだが、開閉時に入れる力を軽減しスムーズにするために、分銅の仕組みが用いられた昔ながらの職人の仕事だ。わたしは、大磯にある明治期の西洋館で、たびたびこの仕事を見たことがある。

■写真上:もとの姿をとどめたまま改築を終えた、1922年(大正11)建築の藤田邸。現在は、カフェ「花想容」として営業しているので、どなたでも美しい建築を見ることができる。
■写真中:改装前の藤田邸は、アトリエとして利用されていた。また、ゆかりの旧・近衛邸ですごした近衛篤麿の次男、近衛通隆氏を招いての講話会などもここで開催されている。空中写真は、1947年(昭和22)にB29から撮影されたもの。この年の11月、安井曾太郎は疎開先からようやく下落合のアトリエにもどっている。
■写真下:改装後の藤田邸。庭園には、レンガ積みを芯にした昔ながらの塀が残っている。邸の南側に近衛篤麿記念碑が建ち、隣接して洋画家・安井曾太郎のアトリエが建っていた。