たまには気分を変えて・・・。わたしがもっともよく聴いた、コルトレーンのアルバムがこれだ。でも、このアルバムは彼の死後に発売されたもので、「わたしが生きているうちは発表するな」と、当時の妻のアリスに言ったとか言わなかったとか。でも、彼は伝説だらけなのでホントかどうかはさだかでない。しかも、このアルバムには異なるバージョンがいくつか存在するようで、発売された国によって「Transition(トランジション)」は必ず含まれるものの、収録された曲がそれぞれ違う。わたしは、日本で発売されたLPおよびCDで聴きなれている。
 ジョン・コルトレーン(ts,ss,fl)のアルバムで、「1枚だけ選んで聴いてもいいよ」・・・と言われたら、いまでも間違いなく、これをピックアップするだろう。フリー志向の『Ascension(アセンション)』へと突入する直前、わずか18日前(1965年6月10日)に録音された作品だ。有調(モードJAZZ)のはずなのだが、まるで幅の狭い塀の上を両手拡げて危うげに歩いているようで、いつどちら側へ転んで落ちてもおかしくないような演奏が繰り広げられている。もっとも、フリーJAZZの定義しだいでは、リズムセクションがバックで有調を奏でる『アセンション』はフリーでなく、どこまでいっても“コルトレーンJAZZ”だ・・・なんてことにもなりかねないのだけれど。
 わたしが学生時代にいちばん好きだったアルバムも『トランジション』なら、いまでももっともお気に入りの作品であることに変化はない。・・・なぜだろう?
 “前進”という言い方が適当かどうか、それまでのイディオムを破壊しようとし、そののちに、新たな再構築を試みようとしている・・・というような“音”にも聴こえるからだろうか。そのまっ只中、過渡期にあるのがこのアルバム・・・と頭で整理して考えたほうが、確かにわかりやすいしスッキリするとは思うのだが、放っておけば30分でも40分でもブロウしつづけていたのは、崩壊感、否定感に往々にしてともなう一種のトランス状態(イイ気持ち)が支配していたからではなかったか? この年の夏、カルテットはヨーロッパツアーへと出るけれど、エルヴィン・ジョーンズ(ds)が怒ってシンバルを投げつけた・・・なんて伝説が生まれるのもこのころのこと。もはや、かろうじて「ジョン・コルトレーン・カルテット」と名乗っていたにすぎないようだ。
 
 「ギリギリのところで迷いながら演奏をつづける、過渡的な作品」・・・と、多くの音楽評論家は本作を位置づけるけれど、わたしにはそうは聴こえない。このアルバムは、とてっもコルトレーンらしい、彼の音楽の本質だと感じるからだ。いままでの規範をなにもかも打(ぶ)ち壊していく、勢いのある快感(Transition/65年6月10日録音)と、まるで一歩間違えればイージーリスニングへ転んでしまいそうな、様式美と予定調和の快適さ(Dear Load/65年5月26日録音)。双方の音楽世界が、彼の内部ではなんの矛盾もなく共存している。その共通項は、いつどちら側へ転んで落ちてもおかしくない、狭い塀の上を歩くギリギリの音楽表現・・・というスリリングなテーマだ。
 こういう状況は、「苦しい」と捉えられるのがフツーだし、事実「新たな表現へ向けて苦しんでいる過渡的なコルトレーン」なんて評論を、このアルバムに関してはイヤというほど聞かされたし読まされたけれど、わたしにはそうは聴こえていない。麻薬的な快感さえ感じられて、「すげえ楽しそうじゃん!」と感じるのだ。いや、もっと言ってしまえば、これが彼の代表作じゃなくてなんなのだ?・・・という想いがあったりする。
 『トランジション』は、いかにもコルトレーンらしさに満ちていて、彼の音楽の本質をよく表現していて、わたしは聴いていると身体が揺れてしまうほど楽しくてしかたがないのだ。『A Love Supreme(至上の愛)』(64年12月9日)や『アセンション』(65年6月28日)は棄てても、『トランジション』はおそらく死ぬまで棄てないだろう。
 ・・・と、こんなことを書き始めると、とたんにここが音楽ブログになりそうだ。音楽と物語(小説)は、あまり近寄らないようにしよう。

■写真:『トランジション』(Impulse)のアルバムジャケット。ジョン・コルトレーン(ts)、マッコイ・タイナー(p)、ジミー・ギャリソン(b)、エルヴィン・ジョーンズ/ロイ・ヘインズ(ds)。