今村繁三と中村彝との出会いは、1910年(明治43)の第4回文展のころだったと伝えられている。このときは、直接対面しての出会いではなく、今村繁三が中村彝の作品と“出会った”という意味だ。このとき、文展に出品されていた作品は、房総の布良(めら)の海を描いた『海辺の村』(30号)で、今村は80円でこの絵を購入。文展の終了時、『海辺の村』は3等賞に選ばれている。
 中村彝の終生のパトロンだった今村繁三は、今村銀行の頭取として、当時の実業界では大きな勢力を持っていた。美術にも関心が高く、高輪にあった広大な邸宅には、まるで美術館のような画館が建っていた。館内には、ヨーロッパから直接取り寄せた作品も多く、ルノアールやシスレーもいち早く収蔵していた。中村彝をはじめ、当時の洋画家たちはこぞって今村邸へと出かけ、ヨーロッパの新しい表現を研究するため、せっせと模写に励んだようだ。中村彝も、シスレーやルノアールを盛んにコピーしては画室に飾っている。
 今村繁三という人は、しじゅう花柳界に出入りして芸者と浮名を流したり、あちこちに女性を囲ったりと、いまではとうに滅んでしまった江戸期でいう「道楽者(どーらくもん)」の系譜だ。自分が好きだ、あるいは価値があると思ったものには決してカネを惜しまない、どこか“破滅型”を感じさせる人物。岩崎小弥太とともに、成蹊学園を創設したのも彼の仕事だ。中村彝は『海辺の村』が縁で、のちに彼から後援資金として月々30円(のちに100円)をカンパしてもらうことになる。
 中村彝は、そのカンパに応えるために、描いた作品を次々と今村に贈った。下落合にアトリエを建設するときも、今村から多大な支援を受けている。そのため、彝は下落合のアトリエで描いた多くの作品を、彼のもとへとどけていた。その中には、『エロシェンコ氏の像』Click!『老母像』Click!なども含まれている。水戸徳川邸に伝わり、現在は水府明徳会彰考館で所蔵されている『母子像』も、もともとは今村から譲られたものだ。
 
 今村繁三が「道楽者」たるゆえんは、いくら芸術家たちへ寄付や援助をしても、見返りの作品を欲しがったり、作品の値上がりを見込んだりしなかった点にあるのだろう。自身も油絵をやっていたようで、高輪の地所を手放し、吉祥寺にあった別荘へと引っこんでからも、芸術家支援の「道楽」はつづいた。でも、日本経済に壊滅的なダメージを与えた恐慌と戦争が立てつづけに起こり、「道楽者」の倣いどおり、今村は急速に没落していく。吉祥寺の広大な別荘を手放し、中村彝をはじめ手元にあった作品群もあらかた人手にわたり、ほんの小さな家を建てて最後に落ち着いたのは、なんと中村彝のアトリエがあった下落合だったというのも、どこか因縁めいている。
 晩年は、聖母病院の下(南)あたりに、小さな家を建てて暮らしていたそうだけれど、調べても詳細な番地まではわからなかった。中村彝の死後、彼の作品に異常な高値がついたころ、事業がうまくいかなくなった今村は、彝の作品を手放すことでずいぶん生活を助けられたようだ。そんなつもりで援助をつづけたわけではなかったのに、生前「かえって彝さんから儲けさせてもらいました」と、周囲へ自嘲気味に漏らしていた様子が、鈴木良三の『中村彝の周辺』(1977年/中央公論美術出版)に伝えられている。

■写真上:左は、中村彝を終生援助した今村繁三。右は、中村屋における彝と中原悌二郎(背後)。
■写真下:左は、高輪の今村邸における画家たちの集い。中村彝の死から1年後、1925年(大正14)の記念写真で▼が今村繁三。右は、聖母病院の下あたりの住宅街。このあたりに、晩年の今村繁三は小さな家を建てて住んでいた。