作詞・林柳波と作曲・井上武士の「ウミ」。おそらく、わたしが生まれて初めて耳に馴染んだ歌だろう。このメロディーとともに、わたしの耳には15年間の潮騒がこびりついて離れない。わたしの“海”は、『もんしぇん』の「鏡のようなおだやかな海」ではなく、台風が来襲すれば窓ガラスが潮ですりガラスに変わり、地震があると津波注意報のサイレンがひと晩じゅう聞こえ、ときには近所の知り合いを呑みこんで返さなかった海だ。
 『もんしぇん』の穏やかな入り江ではなく、相模湾から見わたす、はてしない太平洋だった。いずこからか押し寄せてくる波の音と、ここから何ものかを攫っていく波の音が、海辺を離れてからすでに30年以上はたつというのに、まだ頭の底に貼りついている。まるで、『さらば愛しき大地』(柳町光男/1982年)のヤク中男の頭の中で繰り返しよみがえる、風で揺れる竹林のざわめきのようなものだ。だから、海は何ものかを文字通り“うみ”出すもの、大磯の島崎藤村のように何ものかを贈りとどけてくれるもの・・・という観念は持ちあわせてはいるものの、何かを攫って遠くへと去っていく憂海(うみ)のようにも感じていた。
 海と妊婦というと、わたしはどうしても黒木和雄の『祭の準備』(1975年)Click!を思い浮かべてしまう。そこで描かれたのは、人間のまことに“健康的”な欲望だけで、海はなにがあろうと、なにが起きようと変わらずそこにある“もの”だった。ヴィスコンティの『揺れる大地』(1948年)の海は、とても“意識的”に生きる人間の“手段”にすぎないように見えた。そして、メチャクチャ評判の悪いわたしの好きな桑田の『稲村ジェーン』(1990年)Click!は、実は人などなにも描いていない“海”だけの、ただしその“海”を知る人間にはたまらない映画だった。さて、『もんしぇん』は・・・?
 
 『もんしぇん』(山本草介監督/2006年)は、お腹が(いや頭が)いっぱいになる、湧きあがっては消え、消えては湧きあがる、人間の“想い”が横溢する映画だった。エピソード1からエピソード3ぐらいまでを、一気に観させられた感覚とでも言うべきだろうか。これはおそらく、わたしの海に対するこだわりやコンプレックスがなせる、特殊な幕後感なのだろう。海をめぐるさまざまなテーマや物語が、まるで手を離してしまった色とりどりの風船の束のようにあちこちに浮かび、ゆたかで、欲ばりで、不思議な映画だ。この映画をめぐって、原稿100枚を書けと言われれば書けるだろうし、2時間討論しろと言われればできそうな気もする。でも、そこから感じ、浮かびあがるテーマを言葉にしてしまうのは野暮だという気がしてしまうほど、わたしと海との関わりや結託感は、馴れなれしすぎて深すぎる。
 
 海辺から50mほどしか離れていないところに家があり、親父や時おり訪れる祖父に抱かれ、「♪ウミハヒロイナ、大キイナ~」と砕ける波音を子守歌に、たまに馬車とすれ違う舗装前の湘南道路(ゆーほー道路)を散歩したぬくもりを、そのまま夜泣きするオスガキどもに味わせたくて、「ウミ」の歌を聴かせながら下落合の坂をいつも歩いていた。そういえば、オスガキの名も海にちなんだ名前そのものじゃないか。『もんしぇん』のある場面でこの歌が流れたとき、人と人の感覚というのは、なんとも近しく、繋がりやすいのだろうと改めて想う。
 わたしの15年間が、「ウミ」の歌と太平洋の海鳴りなら、わたしのオスガキたちは「ウミ」の歌ともうひとつ、どのような音が聞こえていたのだろうか? 生きていくうえで、響いてやまない“通奏低音”になりうる音を獲得できるというのは、実はとても幸せなことなのかもしれない。
 
 『もんしぇん』は詰めこみすぎのような気もするけれど、ひょっとすると、そのどこか緒源的な風景や描写から、あなたの“通奏低音”のひとつが見つかるかもしれない。海好きなわたしとしては、ゆたかで欲張りなこの映画を、みなさんにお奨めしたいしだいなのだ。

『もんしぇん』公式サイトClick!
●8月19日~ 上野「一角座」にてロードショウ予定

■写真上:わたしの“ウミ”。物ごころつくころから見ていた相模湾、中央に見える島影は伊豆大島。三原山が噴火すると、噴煙や火口の光がよく見えた。
■写真下:『もんしぇん』の各シーン、パンフレットより。