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吉屋信子の下落合引っ越しルート? [気になる下落合]

 下落合における吉屋信子の住んでいた家は、旧・下落合2108番地(現・中井2丁目21番地)に建てたバンガロー風の邸宅というのが“定説”だ。でも、わたしは「大正期に、吉屋信子が一時期借りて住んでいた家」・・・というお宅を、あと2軒ほど知っている。
 以前、目白文化村シリーズで紹介した吉屋信子の散歩道Click!のころ、つまり第一文化村の住民たちが彼女を頻繁に目撃した昭和初期のころは、すでに下落合2108番地へ自宅を建てたあとのことだ。このバンガロー風洋館の自宅から、吉屋は尾根道を歩きながらテニスコートClick!を第二文化村へと左折し、第一文化村へ抜けるコースを、犬とともにほぼ毎日散歩していた。
 吉屋信子が住んでいたという伝承のひとつは、下落合766番地(現・下落合4丁目9番地)の家。以前、戸田邸Click!の一部移築建築だとご紹介した邸宅Click!だ。この邸宅は昭和初期の建築なので、彼女が住んでいたとすると、それ以前に建っていた大正期の建物になる。そして、もうひとつが下落合2096番地(現・中井2丁目18番地)と、第二文化村にほど近く、吉屋の旧居跡に間近な場所だ。こちらも、日本家屋ではなく西洋館Click!だったようだ。
 興味深いのは、最初は山手線の目白駅へ歩いても10分ほどで出られる便利なところへ、大森の封建的な実家をようよう抜け出して引っ越してきたはずなのに、目白文化村を北に見ながら奥へ奥へ(西へ西へ)と転居していること。もし、これらの伝承が事実だとしたら、吉屋信子は下落合を転々とし、大正末にようやく最後の下落合2108番地へ自宅を建てて落ち着いたことになる。
 
 少しずつ、目白文化村へ寄り添うように移動していった彼女の軌跡は、なにを意味するのだろう? わたしには、転々とした家々が自宅が建つまでの仮住まいなどではなく、当時、同棲していた3歳年下の女性Cとの生活が、大きく影響しているように思われる。いまでこそ、同性愛者のカミングアウトは珍しくもなんともないけれど、大正期の当時は、いまからは想像もできないほどの衝撃的なことだったに違いない。女性が2人で、まるで夫婦のように睦まじく生活していれば、近所の目もうるさいだろうし大家だって黙っちゃいなかった時代だろう。吉屋信子は、それで下落合の数軒を転々とすることになったのではないか? わたしの知る限りでは2軒だけれど、探せばもっと他にも彼女が借りていた家が見つかるのかもしれない。
 吉屋信子が下落合に惹かれたのは、単に大きな西洋館が建ち並び、さらに目白文化村という洋風でしゃれた最先端の住宅街があったからではない。大森の近くにも、大正末にはおしゃれでハイカラな田園調布だって誕生してたのだが、吉屋はあえて下落合を選んでいる。彼女の目には、実業家が数多く住んでいる田園調布よりも、作家や画家、教育家、音楽家などいわゆる「文化人」が多く住んでいて、より解放的でリベラルな雰囲気が漂う下落合のほうが、女性とふたりで暮らすにはより適している・・・と判断したからではないか?
 大正デモクラシーが、政治の世界ばかりでなく、日々の生活レベルで実験的かつ実践的に行われていた街、それが下落合の丘であり目白文化村とその周辺だった。電気冷蔵庫や電気レンジが導入されたシステムキッチンClick!で、男がちょいとしたスバゲッティー(当時表現)料理を作り、女が自動車を運転して目白駅までお客を出迎えに行くような街だった。でも、いくら解放的で自由闊達だった大正末の下落合でも、さすがに女性同士の“夫婦”には大きな違和感を覚えただろう。だから、吉屋は下落合の丘を転々とするハメになった・・・のではないだろうか?
 1926年(大正15)に、下落合2108番地(中井2丁目)へ建設中だった自宅が、ようやく竣工した。これで、誰にも文句を言われずにC女史と大っぴらに同棲できるようになった。石柱の門には、大きな字で「吉屋信子」の表札をかがげている。当時、女性名の表札を門柱に掲げた家は、下落合でも数少なかっただろう。ほぼ毎日、彼女は犬を連れて目白文化村まで散歩に出ていたようだ。まったく同年に、佐伯祐三は下落合じゅう画材を求めてあちこち歩きまわっているので、どこかでこの2人はすれ違いはしなかったろうか。佐伯は、吉屋信子の連れた犬に吠えられはしなかっただろうか? ヴラマンク家のシェパードにも、山田新一の飼い犬にも、盛んに吠えられた佐伯なのだ。
 
 大正末には、吉屋信子はすでに人気作家だった。そんな吉屋に、まったく描く分野やテーマが違うにもかかわらず、ライバル心をむき出しにする林芙美子Click!を彼女は嫌がらず、むしろそんな頑なさに好感を抱いたようだ。吉屋を慕って多くの作家や人々が出入りした、下落合2108番地のバンガロー住宅も、林にはまったく気に入らなかったようで、吉屋がそのような集まりに何度誘っても、当時、上落合に住んでいた林芙美子は決して寄りつかなかったらしい。
 だが、林芙美子の気性にはめずらしく、吉屋信子との交流は彼女が下落合から、のちに鎌倉へ引っ越してしまってからも、ずっと長くつづくことになる。

■写真上:下落合の自宅書斎で執筆する吉屋信子。
■写真中が、下落合2108番地に建てられたバンガロー風の自宅。庭に突き出たポーチが、「吉屋信子の散歩道」沿いにあった、河野伝設計によるN邸の意匠に似ている。は、現在の同所。
■写真下は、人形を飾って満足げな吉屋信子。とても80年前の写真とは思えないほど室内のデザインはモダンで、いまでも通用しそうなインテリアだ。もちろん、目白文化村の生活スタイルを積極的に取り入れていたのだろう。は、吉屋信子が犬を連れて散歩したと思われるコース。彼女は家を出ると、足をほとんど目白文化村へ向けていたようだ。


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