1929年(昭和4)が明けると、下落合駅の踏み切りを渡り、南へ少し歩いた戦前の月見岡八幡(現・八幡公園)Click!の向かい、上落合186番地の妙なかたちをした家で、ひとりの男が窓の外を眺めながら、二等辺三角形の敷地に見あう建物のデザインを考えていた。傍らには、前年に発禁処分を受けたばかりの『戦旗』11月号・12月号が置かれている。発禁のおもな理由は、2号にわたって掲載された『一九二八年三月十五日』という小説のせいだった。その作者である小林多喜二という無名の青年を、男は近くの「ナップ」本部で見かけている。
 前年の1928年(昭和3)に全日本無産者芸術連盟(通称ナップClick!)が結成され、男の家には近くに住む「ナップ」関係の芸術家たちが頻繁に訪れていた。蔵原惟人をはじめ、林房雄、中野重治、鹿地亘、佐々木孝丸、佐野碩、森山啓たちだ。さらに、「ナップ」の活動に加え、男は同年の9月から「国際文化研究所」を起ち上げていた。こちらには、秋田雨雀、藤森成吉、片岡鉄兵、川口浩、立野信之、藤枝丈夫などが参加している。
 男が構想している建物は、三角形の土地を効率的に活用できるよう三角形の店舗ビルになるはずだった。ひどく多忙な26歳の男にとっては、久しぶりに“党”や思想とは直接関係のない、自由で気晴らしのできる仕事だったにちがいない。この男、実は自分のアトリエも三角形で設計しており、月見岡八幡の近所からは「三角の家」と呼ばれていた。
 この「三角の家」に住んでいたのは、画家で小説家、劇作家、詩人、彫刻家、演出家、そしてデザイナーでもある村山知義だった。そして、彼に仕事を依頼したのは、無産主義にシンパサイズし、高橋新吉らとともに『ダダイズム』という雑誌を刊行していた、吉行エイスケ(栄助)という青年だった。吉行は実家の援助を受けて、市ヶ谷駅前(麹町区土手三番町)に三角形の土地を買い、妻のために店を建てようとしていた。この「三角」つながりで、三角アトリエを建てた帝大の先輩でもある村山知義へ、設計の依頼をしたのかもしれない。
 
 村山知義は、30坪ほどの三角敷地に3階建てでモルタルづくりの店舗ビルを構想していた。まるで軍艦の艦首のようなデザインの店舗ビルに、舷側にあるような丸窓がいくつもうがたれている。艦首の先端には、1階から3階まで各階に透明な特殊ガラスがはめこまれ、スケルトン状に建物の内部が透けて見え、外壁は鮮やかな緑色に塗られている・・・。やがて、村山の構想のままに建物は設計され、1929年(昭和4)に店舗ビルは完成した。エントランスの上には、「山ノ手美容院」という看板が取りつけられた。
 村山が知っていたかどうかはわからないが、吉行エイスケは典型的な“髪結いの亭主”で、「山ノ手美容院」の実質的な主ではない。この店の主人は、当時かわいい盛りの長男・淳之介を抱えながら、ようやく病が癒えたばかりの妻である吉行あぐりという美容師だった。開店後しばらくすると、「山ノ手美容院」は“新しい女”たちで大繁盛するようになる。常連客には、市谷左門町に『女人藝術』の編集部を置いていた長谷川時雨Click!をはじめ、佐多稲子、円地文子、三浦環(たまき)、真杉静枝、三宅艶子、李王妃(朝鮮王家)などがいた。
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 建てて一、二年後には、「パーマネントウエーブ」という、当時は珍しかった大きなネオンサインもつけました。そして、のちには外壁を銀色に塗り替えました。
 坂道に沿った土地なものですから、わざわざ盛り土をいたしまして、階段を上って入るようになっています。あとで聞いたのですが、ふつう商売をする場合、下りていくのがいいのだそうです。ところがうちは逆をいってしまいました。
 近所の人たちは、教会でもできるのかしらと噂なさっていたそうです。
                                 (吉行あぐり『梅桃が実るとき』より)
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 外壁を鮮やかな緑色に塗った、アヴァンギャルド村山知義も真っ青になりそうな、建物をすっかり銀色に塗りなおしてしまった、吉行あぐりの感覚もすごい。
 
 やがて、前衛的なデザインの「山ノ手美容院」は、1945年(昭和20)5月25日夜半の空襲で焼けてしまった。だが、戦後も常連客の多くは、市ヶ谷駅前に再オープンした「山ノ手美容院」改め「吉行あぐり美容室」に通いつづけた。1981年(昭和56)には、敷地を銀行に貸して、美容室はそのビルの中で営業を続けることになる。
 新坂に面したビルの中にある店は、「吉行あぐり美容室」当時の姿とそれほど変わっていないが、現在は美容室ではなく男性向けの「ヘアーサロン」として、別の店がオープンしている。

■写真上:左は、村山知義・設計の「山ノ手美容院」(1929年・昭和4築)。右は、1981年(昭和56)からビルの中で営業をつづけた、「吉行あぐり美容室」の現状。いまは床屋さんになっている。
■写真中:左は、村山知義のアトリエ「三角の家」があった上落合186番地で、移転前の月見岡八幡があった場所、現在の八幡公園の前にあたる。右は、「ナップ」本部があった上落合215番地で、ややこしいのだが現在の月見岡八幡のちょうど斜向かいにあたる。村山アトリエの「三角の家」から「ナップ」本部までは、わずか100mほどしか離れていない。
■写真下:左は、1936年(昭和11)の上落合・月見岡八幡(当時)の上空から。右は、同年に撮影された「山ノ手美容院」前の記念写真。長女・和子を抱いているのが吉行あぐり。