最近、街で俥(じんりき)に出あうことが多い。観光都市・東京だから、国内外からの観光客を乗せて走っているのだが、四谷あたりの住宅街で普通の客とおぼしき人を乗せて走っているのを見ると、自分がいったい何時代を生きているのか、なんとなくめまいがしそうだ。俥屋(くるまや)の中には、結婚式場とタイアップして、花嫁花婿を運んでいるのも、浅草あたりで頻繁に見かける。
 俥といえば、わたしは阪妻の『無法松の一生』(稲垣浩監督/1943年)がまず思い浮かぶ。なんとまた古い!・・・というなかれ、親父が大の富島松五郎ファンで、映画はもちろん新国劇の舞台にも、わたしは幾度となく連れて行かれた。舞台では、辰巳柳太郎(島田正吾版もあったかな?)も観たが、緒形拳の無法松も観ている。おそらく、映画の三船版や三国版なども含め、「無法松」はほとんどのバージョンを舞台と映画館とで観ているだろう。それほど、親父は無法松のキャラクターが好きだったようだ。どこか、下町の気風(きっぷ)に通じる人物だからかもしれない。舞台は九州の小倉だけれど、なんとなく下町男(無法松)が山手女性(戦争未亡人)にあこがれるといった、どこかで見たような図式だからなのか。
 1943年(昭和18)に制作された『無法松の一生』(主演・阪東妻三郎)は、戦争未亡人を思慕する松五郎の描写が、「当局の検閲」で大幅にカットされた・・・ということになっているのだけれど、真相はどうやら違うようだ。『実録日本映画の誕生』(平井輝章・著/フィルムアート社)の、稲垣監督自身の証言によれば、「検閲保留」で“試写”をつづけるのが黙認されたとある。
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 内務省の検閲官はこう言うんです。“私人としてはこの映画はたいへん好きだ。しかし、未亡人の恋愛について触れるのは、客観情勢が許さない。もしどうしても封切るというのなら、その部分を全部切らなければならないが、それではこの映画のよさはなくなり、ただの<忠僕無法松>で終わる。そこで、この際は「検閲保留」ということにしたい。戦争もそう長くはないだろうから”とね。
 (略)もう一つ、検閲官は最後決定の時間を延ばしてくれ、その間は任意に試写をやってもよろしい、と言ってくれました。
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 おそらく、アッツ島守備隊が全滅し、キスカ島からも日本軍が撤退したあとの話だと思われ、検閲官みずからが「戦争もそう長くはない」と漏らしているのが興味深い。つまり言い換えれば、もうすぐ日本は戦争に負けるから、公開をそのあとにしては・・・と奨めているように受け取れる。そして、“試写”会をそのままつづけるのを黙認するというので、実際には公開に近いかたちで、万単位の観客がこの作品を観ていた。
 
 以前、「(戦争に)勝てるわけがね~」と言い、誰かの密告で警察に引っぱられた学生時代の親父Click!のことを書いたけれど、情勢をクールに見きわめ論理的にものごとを考えられる、こういう検閲官がいたことも銘記しておかなければならないだろう。フィルムをズタズタに切り刻んでしまったのは、のちに“定説”となった「当局の検閲」などではなく、監督自身の言によれば実は資金回収を焦っていた、大映社内のヒステリックな“自主規制”だったようだ。
 富島松五郎のような“おっさん”は、昔は町内に必ずひとりやふたりはいた。子供たちが遊んでいると、嬉しそうにやってきて遊び方の指導をしたり、昔話を聞かせてくれたり、ときには頭をコツンとやられて怒られたりもした。もちろん、下町にもたくさんいただろうが、湘南にだっていた。なんの仕事をしていたのかわからないけれど、平日の昼間に現れて、通りすがりに「○○ちゃん」と必ず声をかけていった。こういう「松五郎」たちの目に保護されていたから、子供を巻きこんだ妙な事件が街中で起きなかったことに、改めていまさらながら気づくのだ。
 いまの子供たちが遊んでいるところへ、「無法松」のような“おっさん”がいきなり割りこんできたとしたら、はたしてどういう反応をするだろうか? ハナからまったく無視されるか、あるいは「出たね、また出たね。わしゃ、かなわんな~」(高勢實乗)とでも言われてしまうのだろうか。(爆!)

■写真上:浅草寺境内にて。最近はカップルを乗せた、こんなブライダル俥をよく見かける。
■写真下:稲垣浩『無法松の一生』(1943年・昭和18)より。無法松はもちろん阪妻(ばんつま)だ。