中村彝の描く下落合の風景は、アトリエのごく近くを画材に選ぶことが多い。下落合へ引っ越してきたばかりのころ、1916年(大正5)からしばらくは近所を散策して、たとえば落合村の本村(現在の下落合駅北側)あたりまで出かけ、スケッチClick!を残している。でも、病状が悪化するにしたがって、行動範囲は徐々に狭まり、『目白の冬』Click!のようにアトリエの裏にあるメーヤー館(目白福音教会牧師館)や目白英語学校、そしてついにはアトリエの前庭しか描けなくなる。
 だんだん身動きがとれなくなる以前から、中村彝はアトリエの庭先Click!をよく描いているので、林泉園沿いに植えられた桜並木が茂る、このあたりの風情が特に気に入っていたのかもしれない。それらの作品や当時の写真から庭の様子を見ると、アトリエが完成した当初から亡くなる1924年(大正13)までの間に、ずいぶんと手が加えられていることがうかがえる。アトリエに寄り添うように植えられた楡の木と、芝生が拡がる南側正面に植えられた大島椿の配置は変わらないが、その他の樹木には頻繁に手を入れていたようで、晩年になるほど庭木の数が減っているように思える。結核治療のため、できるだけ陽当たりをよくしたものだろうか。
 鈴木良三シールが貼られた上の絵は、『風景』と名づけられている晩年に近い作品だ。1923年(大正12)9月の関東大震災のとき、アトリエの東側壁面の一部が崩落したため、彝はその修繕ついでにアトリエを大きく改築している。従来は、西側に接した道に玄関を設けていたのだが、南側の林泉園の尾根道沿いに設置していた木戸を門へと造りかえ、アトリエの東側からも訪問客が入れるよう居間(応接室)つづきに第二の玄関Click!を設置したのだ。上の作品は、林泉園に接した南側の尾根道沿いへ、大震災のあとに造られた小さな門を描いたものだろう。塀の一部が大きく剥脱しているが、おそらく地震の痕跡と思われる。
 塀の向こう側に見えているのは、林泉園沿いの桜並木だ。その向こう側には、泉が湧く谷戸と谷底には澄んだ池が横たわっているはずだ。1923年(大正12)9月18日付け、新潟県の柏崎に住む洲崎義郎あてに出された中村彝の手紙には、援助金や援助物資のお礼につづいて、大震災の模様がこんなふうに書かれている。
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 (前略)私の體も幸ひにあの当時は割に元気で、三晩も庭に野宿し、四日の午後あの豪雨の中を徒歩で友人の家に避難した位の勢です。昨今になつて少しく(三七、八)発熱がありますが、これも大したことはあるまいと思つてます。この度の震災によつて私はつくゞゝ、絵を(思ひ)かく事以外に自分の心に絶対の安神(ママ)を与へ、死に打ち勝つべき道はないといふ事を痛感しました。
 二日前に画室に立ち戻り、河野君に頼んで崩壊した画室の壁に板をたゝきつけて貰つて風雨をふせぎ、早速絵をかく準備をしました。このさわぎの中で絵を描くなぞと、余りに冷血な、不徳義な事とも聞えませうが、然しあなたには私のこの心がきつと分るだらうと信じます。私にとつては、これだけが僅かに残された唯一の道なのです。これ以外に、この助かつた生命を意義あらしめる方法はないのです。  (中村彝『藝術の無限感-感想及書簡集-』より)
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 この『風景』という作品は、展覧会でも画集でもあまり見られない、個人蔵の作品と思われる。制作年がはっきりしないが、アトリエを大幅に改築した1923年(大正12)の秋以降であることは間違いない。庭木や植え込みが見られず、アトリエ建設当初に比べたらずいぶんスッキリと整理された庭となっている。草木の枯れ具合から、どうやら冬が間近な晩秋のように思える。翌年の暮れに彝は他界してしまうので、おそらく震災の年である1923年(大正12)の制作ではないか。庭に面した居間(応接室)の、両開きのドアあたりにイーゼルをすえて描いている。32.7×23.4cmという4号ほどの小さな絵で、キャンバスではなくボール紙のような厚紙に描かれているようだ。左下には、「T.Nakamura」のサインがはっきり見える。
 改築後、アトリエへの来客は、作品の小さな門をくぐり東側の小径を通って第二の玄関へと向かうはずだったが、ここに描かれているように門は普段からピタリと閉じられていたようだ。だから、訪問者は西側にある従来の玄関へと廻らざるをえないのだけれど、そこには岡崎キイClick!が立ちはだかって、なかなか中村彝に会わせてもらえなかった。彝の体調が悪いとき、身体に障りそうな来客はことごとくキイに追い返されていた。
 中村彝アトリエの保存へ向けた動きは、いまのところ順調だ。この8月10日に、新宿区教育委員会と早稲田大学による図面起こしを含めた詳細な記録調査が終了し、あとは保存へ向けた調査報告を新宿区へ行うのだろう。ただし、今年の11月に新宿区長選を控えているので、実際の保存へ向けた具体的な動きは区長選のあと、来年になるのかもしれない。

■写真上:左は、中村彝『風景』(1923年・大正12?)。右は、居間側から眺めたアトリエの前庭。
■写真下:左は、南側にあった小さな門を5~6m入ったあたりから、アトリエを眺めたところ。『風景』を見ると、彝晩年のアトリエ東側には、樹木がほとんど植えられていなかったのがわかる。右は、1947年(昭和22)の空中写真にみる、中村彝アトリエと林泉園の様子。