早いもので、きょうでブログを始めて丸2年になる。当初は、どのようなブログにしようかなかなかイメージがつかめなかった。わたしの身のまわりで起きることをつれづれ書いていく、つまり本来のWebログの目的どおり日記風の書きだめをするつもりでいた。ところが、いつの間にかわたしの思惑を離れて、このメディアが“ひとり歩き”を始めてしまったのだ。
 身のまわりで起きることとは、わたしが住んでいる目白・下落合界隈で起きることよりも、好んで散策するふるさとClick!の下町界隈、特に日本橋中心の記事が多くなるだろうと予想していた。ところが、下町散歩へはよく出かけているにもかかわらず、ブログのコンテンツはどんどん山手のご近所のテーマが多くなっていく。しかも、当初は現在進行形の記事がほとんどだったのだけれど、わたしが70年代にチラリとその最後の残照を目撃していた目白文化村Click!のことを書きはじめてから、コンテンツががらりと一変してしまった。
  
 地元、目白・下落合界隈に去来した人々の物語を掘り起こすのが、むしょうに楽しくなってしまったのだ。以来、ブログの記事数は500を超えているけれど、拾い集めた資料や物語の5分の1もいまだ書けていない。膨大な資料や取材ノートや画像データのフォルダに埋もれながら、わたしの非力にため息をつくばかりの日々がつづく。
 もうひとつ、わたしが意外だったのは、目白・下落合Click!について知りたいと思っている方々が、新宿区のみならず都内のみならず、全国的にいらっしゃるということだ。特に、もはや幻となってしまった目白文化村をはじめ、下落合に暮らしまさに“芸術村”を形成していた画家や作家たちの軌跡、かろうじて戦災をまぬがれた貴重な近代建築群、そして目白崖線の自然や下町の柳橋と直結する神田川(旧・神田上水/江戸川)などの記事は、びっくりするほどの数の方々が訪問されている。また、間借り人・負け犬さんClick!の「シネマレビュー」は、ビジター数も多いがトラックバックもすごいことになっている。ほんとに面白い映画を求めている方々が、いかに多いかがわかる現象だ。わたしのブログの訪問者は、この11月でのべ45万人を超えた。

 さて、これからどうしよう? たまに、チラチラと打ち上げられる仕掛け花火のように、御城下町Click!(旧山手含む)の記事を書いてはいるけれど、こちらのテーマも書きたいことが山積している。パソコンに保存されたデジカメ画像の容量を比較すると、下町画像を「10」とすれば、地元の目白・下落合界隈の画像はいまだ「3」ぐらいだろうか。ところが実際に書きはじめると、この比率はあっさりと逆転してしまう。
  
 わたしの世代は、オリンピックを境に城下町としての東京の町場に息づいていたコミュニティに、最後のトドメが刺されるのを、かろうじてじかに目撃している。下町が大きな変貌をとげる、ちょうど端境期に行き合わせたようなものだ。親父に連れられてさんざん歩いた、わたしがまだ子供時分のことだが、それ以前を語れるお年寄りはたくさんいる(過去にもいた)し、以降の新しい町(壊れた地域)の情報はあちこちに溢れているけれど、ちょうど、その端境期の様子が語られることは少ない。小林信彦の「町殺し」エッセイ群はむしろ例外で、壊されつづけた“敗残”と“荒廃”の下町を、ことさら描写したくないのが人情なのだろう。
  
 だから、というわけでもないけれど、この町で起きた“荒廃”の様子を描きとめておかなければ・・・という気持ちも動く。いまや、新乃手たる目白・下落合あたりまで忍び寄ってきた、「地域再開発」という名の地域(コミュニティ)破壊や環境破壊を前に、城下町・東京に横溢していた60~70年代の“敗残”光景を、いま一度、反面教師として銘記しておきたいという誘惑にかられるのだ。
 地域の人口が一気に半減し(いまは少し回復している)、夜になるとまったく人っ子ひとり見かけないような街に、目白・下落合をしたくはない。そんな想いもあるのだけれど・・・。

■写真上:愛宕山上空から見た、千代田城の内堀域。巨大な(城)下町東京の姿だ。
■写真中上:左から、日本橋川と日本橋、薬研堀不動、両国橋(大橋)の西詰め。
■写真中下:左から、不忍池、常磐橋と日本銀行本店、谷中の屋根つづき。
■写真下:左から、浅草六区の演芸ホール、浜離宮と東京湾、大川と永代橋。