わたしの、いわゆる“御守り”だ。ときどきペンダントがわりに下げてたりする。出雲は八束郡の花仙山のみでしか採れなかった、碧玉(へきぎょく=青メノウ)で造られた勾玉(まがたま)だ。おそらく、邪馬壹国の巫(ふ)女王・卑弥呼(フィミカ)さんがいた3世紀から、その少しあとまでの作品ではないかと思っている。この勾玉は、出雲(島根県)から出土したものではない。東京のまんまん中、神田川の河岸段丘でずいぶん前に発見されたものだ。つまり、この地域がエト゜(のちに江戸)やチェオタ(千代田)、神田川がピラ(崖)川と、カタカナで表記せざるを得ないような音で呼ばれていたと思われる時代に、この勾玉は誰かの胸元を飾っていた。
 勾玉は縄文時代から(一説では旧石器時代から)存在する、原日本独特の装飾品または祭儀品だ。出雲独自の碧玉が、勾玉に用いられるようになったのはおもに弥生時代からで、古墳時代の末期まで造られつづけたらしい。この作品が、出雲の玉造り職人の手で造られたと断定できる理由は、素材自体が古代の出雲のみからしか産出しない碧玉であることもそうなのだが、もうひとつの重要なポイントとして、勾玉造りの技術に他地域とは明らかに異なる特徴が見られるからだ。出雲ならではの、穿孔(せんこう=穴あけ)技法だ。
 古代出雲の勾玉や管玉などのアクセサリーは、片側穿孔と呼ばれる技法が用いられている。特に、八束郡玉造(やつかぐんたまつくり)周辺に住んだ技術者たちが得意としたワザだ。ふつう、硬い石や焼物に穴をあける場合、両側からあけて中央部分で貫通させたほうが、労力が少なくて済み効率的だ。この古代技術を一般的に攻玉(せめだま)というのだけれど、出雲の技能者たちはなぜか最後まで、片側のみから攻玉する片側穿孔に固執しこだわりつづけた。なにか、技法をこえたところに独自にこだわる美意識や思想があったのかもしれない。
 攻玉の断面を見ると、その違いは明白だ。攻玉をした側、つまり表側には大きな穴があき、反対の裏側には非常に小さな穴しかあかない。スライスすると、きれいにV字型の穿孔跡が見られることになる。このV字型穿孔が、出雲ならではのかたちだ。これは碧玉ではなく他の素材でも踏襲されていたようだが、どのようにしてこのような硬い素材に手作業で錐のような穴をあけることができたのか、その技法はいまでもよくわかっていない。
 
 
 勾玉は日本全国の遺跡から出土しているが、関東地方も発掘例が多い。しかも、この勾玉が出雲から輸送されていたとすれば、古代にもそれだけの物流ルート(おそらく海路)が発達し、確立されていたのだろう。特に、出雲と関東とのつながりは色濃く、このような発掘物による考古学的な物証のほか、聖域(明治以降は神社と呼ばれるエリア)の神々、神話、地名、風俗、伝承などのフォークロアにおいても、密接な連携がうかがえる。
 あるいは、これまでここに何度も書いてきたClick!ことだけれど、古代出雲の亡命者たち、特に鉄の精錬や鍛錬を得意とする集団が、出雲王朝の「国譲り」に絶望し東へと逃れてきて、関東平野の全域、特に川砂鉄のカンナ流しを目的とした河川沿いへとへ展開Click!した中に、玉造りの技能集団も混在しており、花仙山から持ち出した碧玉を砕き、わたしの勾玉は亡命先、つまり“東京”で造られた可能性さえある。江戸東京の総鎮守Click!をはじめ、地域の八雲や氷川(斐川)の聖域に展開する神々が、出雲神であるのはとても示唆的だ。
 勾玉の素材には、碧玉のほかにヒスイ、メノウ、水晶、琥珀、ガラス、焼物など、さまざまなものが用いられているけれど、おしなべて深緑色あるいは青色の勾玉が高貴とされていたようだ。モノが産まれいずる「碧」、陰陽五行でいうと方角では東、季節では春を意味する。万物の誕生と自然現象とが密接に結びついた、古代日本の希望の色だ。碧玉は出雲だが、ヒスイはもちろん北陸(越)の河川から海岸線にかけての一帯だ。ヒスイの勾玉を全国に供給していた女王国については、水野祐が1969年(昭和39)に著した『勾玉』(学生社)で、次のように紹介している。
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 兵庫県尼ヶ崎市田能遺蹟出土のヒスイは、姫川産のヒスイであることがあきらかにされた。おそらくこのヒスイ文化圏の製品は、北九州まで日本海を通して移出されていた。こうした北陸のヒスイ文化圏を、伝説史的に見るとヌナカワヒメを中心に劇的なシーンをのこしている越文化圏である。ヌナカワヒメはまさにヒスイを支配していた越国の「ヒスイの女王」であった。そしてこの「ヒスイの女王国」を、出雲政権は第三世紀末から、第四世紀のはじめ頃に服属させることに成功した。そしてヌナカワ政権が出雲政権の中でその命脈を保っていた。こうした政治的支配関係はヒスイ文化の伝播に大きな影響があったであろう。   (「ヒスイの女王国」より)
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 出雲や越にあった王国(おそらく母権社会)が、朝鮮半島北部の高句麗に圧迫され、南朝鮮の伽耶(加羅)や百済、新羅あたりから侵入してきた、武力に勝る異民族王朝(男権社会)に圧迫されはじめると、服従を嫌ったまつろわぬ原日本の人々、中でも手に職を持った特殊技能者たちの集団は東や北へ、あるいは南へと海路で逃れていったに違いない。ポリネシア系古モンゴロイドの神話や伝承を色濃く残す、彼らのうちの多くは関東地方にもやってきただろう。湘南海岸の各地にも残る、さまざまな古いフォークロアがそれを物語っているが、その集団の中に勾玉造りを得意とした若者がひとり、混じってやしなかっただろうか? 彼は希望色の石、ふるさとの山で採れた碧玉を、たくさん船に積んで出雲王朝の友好国だった坂東の国々めざして黒潮を航海してきた。
 彼は、まさか1600年以上もの時を超えて丹精こめた自分の作品が、出雲のクシナダヒメが鎮守する下落合という土地の、ChinchikoPapaとかいう怪しげな名前の男の胸にぶらさがることになるなど、想像だにしなかったに違いない。

■写真上:出雲の碧玉で造られた勾玉で、都内の神田川流域から出土したもの。典型的な出雲玉造の伝統技法、片側穿孔の作品だ。サイズからして、男性用の勾玉だろう。表面にキズがついているが、おそらく矢跡だと思われる。この勾玉で、持ち主は生命を救われたかもしれない。
■写真中:左上は、旧石器時代の遺跡から出土した勾玉。右上は、古墳時代の勾玉各種。左下は、夫婦塚古墳出土の女性用勾玉ネックレス。右下は、同古墳出土の男性用勾玉ネックレス。
■写真下:出雲玉造で再現された古代の勾玉ネックレス。碧玉と縞メノウのしぶい色彩が美しい。