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目白駅近くの「サイタ」さんの庭にて。 [気になるエトセトラ]

 上の画像は、洋画家・刑部人(おさかべじん)のご子孫のお宅に秘蔵されている、『初秋の庭』(栃木県立美術館)の貴重な習作だ。麻のキャンバスではなく、4号の板に描かれている。「目白駅の近くにあるサイタさんというお宅の庭」・・・情報はこれだけだった。いまでもご健在な、刑部人の妹さんの言葉。『初秋の庭』に描かれている少女こそが、彼女自身だ。そして、この風景はどこを描いたものなのか・・・、「目白駅の近く」にあった「サイタ」さんち探しがはじまった。
 『初秋の庭』が描かれたのは、1929年(昭和4)の夏の終わりで、同年10月の帝展にさっそく出品されている。当時、刑部人は池袋966番地(現・池袋3丁目)に住んでいた。のちの下落合アビラ村(現・中井2丁目)のアトリエではないので、「目白駅の近く」といっても下落合とは限らない。1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」をたんねんに探したけれど、「サイタ」邸は発見できなかった。同時に、「サイタ」という苗字がどのような漢字なのか調べてみる。これは、すぐに見つかった。刑部人の東京美術学校の同期生に、斎田捷三という人がいた。刑部人アトリエClick!サイトにも登場している、美校仲間のひとりだ。1929年(昭和4)4月15日発行の、東京美術学校交友会「交友会月報」にも掲載されていて、斎田捷三の卒業制作は『裸婦』と記載されている。おそらく、この人物に間違いないだろう。でも、斎田はのちに画家にはならなかったようだ。
 
 
 目白駅周辺ということで、1926年(大正15)作成の「長崎町東部事情明細図」および「高田町北部住宅明細図」を調べはじめた。ずいぶん時間がかかったけれど、「高田町北部住宅明細図」の中にようやく「サイタ」邸を見つけることができた。「サイタ」の「サ」の字がかすれ、ざっと探しただけでは見つからないはずだ。しかも、当時の地図は名前を横書きにするとき、右から左へ記載するのが普通だが、「サイタ」は左から右へと記載されていた。一連の事情(住宅)明細図は、版下が細かな切り貼りで作られているせいか、この名前表記の規則が一定していない。もちろん右から左への表記が多いが、左から右への記載も少なからず見うけられる。
 「目白駅の近くにあるサイタさん」は、実は目白駅ではなく自由学園明日館Click!の南側、旅客輸送をはじめたばかりの武蔵野鉄道・上屋敷駅Click!の近くだったのだ。上屋敷駅の認知度がまだあまり高くなく、池袋966番地の自宅を出てから立教大学近くを通り、豊島師範学校や池袋駅を左手に見て南下しつづけた少女の記憶には、目白駅の近くと刻まれたのに違いない。
 
 『初秋の庭』に描かれた少女は、当時、山手の典型的な女の子の装いをしている。麦藁帽子をかぶり、白いワンピースとタイツをはいた少女の姿は、目白・下落合界隈ではおそらくそこかしこで見られたコスチュームなのだろう。上に掲載した『初秋の庭』画像の右に、ほぼ同時代の少女の写真を載せてみた。洋画家・岸田劉生の娘・岸田麗子で、同じようなお出かけ姿が微笑ましい。
 1936年(昭和11)の空中写真で斎田邸の周辺を見ると、いまからは想像もつかない豊かな雑木林や原っぱが残っているのがわかる。斎田邸は、いま風にいうとテラスハウスのような造りだったようで、おそらく庭は西側か南側にあったのではないかと思う。戦後の1947年(昭和22)の空中写真では、連なった屋根がはっきりと見て取れる。ただし、作品に描かれたような庭のスペースがどこなのかは特定できない。ひょっとすると、南に接した伊豆見と書かれた敷地の原に接している、草むらの一画だったのだろうか。

 1929年(昭和4)夏の終わりのある日、刑部人は妹を連れて池袋の自宅をあとにした。手には、絵道具とスケッチブックを下げていた。そして、山手線を左手に見ながら、美術学校の同期生でこの春ともに卒業したばかりの、親しかった斎田捷三の家に立ち寄った。彼は妹に、「もう、すぐそこが目白駅だよ」と話しかけたかもしれない。だから、彼女の記憶には、ことさら「目白駅」が強く印象に残ったものか。斎田邸に着いて友人と語らった刑部人は、やがて庭で遊ぶ妹の姿をスケッチしはじめた。
 ときおり、上屋敷駅に停車する電車のブレーキのきしみ音や、秋の気配を予感したセミの慌しい鳴き声が、あたりに響いていたに違いない。残暑の陽射しとともに、おだやかで豊かな時間が、ゆっくりと流れていった。

■写真上:刑部人のご子孫宅に残る『初秋の庭』習作。おそらく、1929年の9月ごろの制作か。
■写真中上左上は、「高田町北部住宅明細図」(1926年・大正15)にみる斎田邸周辺の様子。右上はその拡大図。左下は1936年(昭和11)、右下は1947年(昭和22)の斎田邸上空。
■写真中下は、栃木県立美術館所蔵の刑部人『初秋の庭』(1929年・昭4)。同年10月には、さっそく帝展に出品されている。は、岸田劉生が目に入れても痛くない愛娘・麗子。
■写真下:上野行きの特急列車を背景に、ホームに立つ刑部人(左)と金山平三Click!(右)。


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悠々美術館

いつもながら、ドラマティックな内容にホレボレします。

刑部人の絵画、大好きです。

岸田麗子、金山平三の写真、貴重です。
by 悠々美術館 (2006-12-17 18:02) 

ChinchikoPapa

悠々美術館さん、ありがとうございます。
過分のお褒めの言葉だと思います。
このサイトをご覧になって、モデルの刑部画伯の妹様より、コメントをいただきましたので、のちほどこちらでご紹介しますね。いろいろ思い出されたことがあるようなのです。(^^
by ChinchikoPapa (2006-12-18 12:13) 

ChinchikoPapa

この記事をご覧になって、モデルの「少女」が思い出されたことがいくつかおありですので、ご紹介いたします。
まず、白い服ですが、お兄さんの刑部画伯が日本橋の三越本店で誂えてくれたものだそうです。当時、この白い生地は「フランスチリメン」と呼ばれた材質だそうで、東京美術学校を出たばかりの、いまだおカネのない絵描きにとっては、かなり高価な買い物だったはず・・・とのことです。「フランスチリメン」とは、現在では「ジョーゼット」と呼ばれる生地だとか。
もうひとつ、目白駅近くの斎田邸には一度だけではなく、何度か通われたそうです。どうやら、池袋966番地の自宅から歩かれたのではなく、池袋駅へ一度出られてから電車(武蔵野鉄道)に乗車された記憶が蘇ってきたとのこと。そして、ひとつめの上屋敷駅で降りて、自由学園明日館近くの斎田邸へうかがったのかもしれないということでした。
by ChinchikoPapa (2006-12-18 12:28) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。
 >kurakichiさん
 >さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2014-09-30 17:00) 

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