昔から、下落合にはキリスト教の教会が多いため、おそらく明治末から大正初期ぐらいには、すでにクリスマスツリーがどこかに飾られていただろう。落合福音教会(のち目白福音教会)周囲のクリスマスツリーClick!が、もっとも早かったかもしれない。なにしろ、伴天連禁止のお触れを出した徳川さんちの子供たちが、そろってマリアの宣教者フランシスコ修道会(聖母病院)へ礼拝に顔を出す(新宿区教育委員会『新宿区の民俗』)ような土地柄Click!なのだ。佐伯祐三も、お寺の息子なのに下落合のアトリエへクリスマスツリーClick!を飾っていた。ハイカラな目白文化村では、ツリーの煌めきはそこかしこで見られたことだろう。
 12月に入って、薬王院の門前にクリスマスツリーが出現した。昨年はなかったので、今年から始めたのだろう。もちろん、薬王院が飾っているのではなく(^^;、参道のお宅がデコレーションしたものだ。寺の門前にクリスマスツリーというのも面白いが、暗くなってから周囲に気をつけて歩くと、そこらじゅうにイルミネーションが輝いている。ちょうど薬王院を取り囲むように、クリスマスの電飾が美しく映えていたりする。まあ、とても日本らしい風景だ。
 中村彝の教会通いClick!ではないけれど、ほとんどの人たちがキリストの復活や、キリスト教そのものを信じているわけではない。エキゾチックなその場の雰囲気と、美しい光景と、“遊べる”楽しさと、子供たちに夢を与えられれば・・・という親心と、商売繁盛をめざすプロモーションの一環として、クリスマスを利用しているにすぎない。わたしにとってもキリスト教は、インドから中国を経て輸入された外国の仏教と同様に、その心情はそれ以上でも以下でもない。
 ちなみに、うちは深川にある禅宗の一派である寺の、350年来の檀家ということになって(されて)いるけれど、わたしはインド人でもネパール人でも、はたまた中国人でもないので、そこからやってきた宗教にはあまり親しみを感じない。仏教もキリスト教も、ましてや「伊勢神道」(ナラ王朝の神道)も信じていない。わが家の唯一の宗教的行事はといえば、新年に神田明神と氷川明神女体宮の地主神たる出雲の神々へ、挨拶をしに出かけるぐらいだろうか。
 
 わたしの世代が、寺や仏教にことさら冷淡なのには理由がある。親たちが、東京大空襲Click!に遭遇しているからだ。その昔、下町の寺々には、まま地元の人間ではなく、“本山”から派遣されてきた住職が就任していた。戦争も末期になり、空襲が予想される時期になると、あろうことか坊主たちはさっさと生命惜しさに、出身地(ふるさと)へと“疎開”していった。そして、1945年(昭和20)3月10日を迎えることになる。“田舎”のない地元がふるさとの東京人たちは、大きな被害に遭い膨大な数の死者が出たのだけれど、明らかに家族や親戚とわかる遺骸を弔おうとしても坊主たちが逃げてしまったので、戦後になるまで肉親の満足な供養ができなかったのだ。
 地域がいちばん寺を必要とするときに、地元や檀家をさっさと見棄てて見かぎったベラボー(大バカ)坊主たちのことは、その後もさんざん親たちの世代で語られつづけ、当然、わたしの耳にも繰り返しイヤというほどとどいていた。だから、いくら自家代々の墓があるとはいえ、かんじんなときに寺や墓を守らず、死者を弔うことも放棄して「敵前逃亡」(親世代の表現)していったのに、知ったふうなわけしり説教師ヅラをするな・・・というのが、親たちの正直な気持ちだったのだろう。わたしも同感だ。これも、「大江戸の恥はかきすて」Click!のバリエーション、あとは野となれ知らないよ・・・の臭いがプンプンする。いまの寺がいくら代替わりをし、檀家からの総批判にさらされて地元に根づくよう世襲制になったといっても、まったく信用できないのだ。
 今年も、クリスマスツリーを飾った。相変わらず、バブルライト(ボコボコ)Click!も欠かさずツリーに取り付ける。この風情がないと、年越しをひかえた12月らしくない・・・、わたしはそんな育ち方をしてきている。夜になると、薬王院の門前ではブルーライトのクリスマスツリーが華やかに点滅している。寺にお参りする人たちは、薄暗くなった参道にまたたくクリスマスツリーを見て、「まあ、クリスマスねえ、キレイ!」とつい言ってしまうのも、また日本らしい風情なのだ。

■写真上:薬王院の門前に出現した、クリスマスツリーのイルミネーション。
■写真下:左は、茶会も盛んに行われる薬王院門前。右は、わが家のクリスマスツリー。