刑部人(おさかべじん)Click!の作品に、自邸の庭を描いた作品が何点か残っている。アトリエの北側に接したバッケ(目白崖線)の斜面と、そこに咲いた花々を描いた1967年(昭和42)の『花開く』。もうひとつは、新宿区が所蔵する『我庭(冬)』で、アトリエの窓から自邸の裏側のバッケを見上げて描いた雪景色の作品だ。『我庭(冬)』とタイトルしているところをみると、『我庭(夏)』や(春)(秋)というバージョンもあるのかもしれない。薮蚊がことさら多い下落合のこと、『我庭(夏)』も室外ではなく、アトリエの窓からバッケを描いているのだろうか。
 1931年(昭和6)4月、『初秋の庭』Click!を描いた翌々年、刑部人は同じ東京美術学校の出身であり、府立一中時代からの1年後輩だった島津家の子息・一郎の妹・鈴子と結婚し、下落合2074~2076番地あたりにアトリエを新築した。金山平三が「アビラ村」Click!と名づけた、島津邸の広大な敷地が南斜面に拡がる、中ノ道に面した一画だった。刑部人は、当時の洋画界でフォービズムやシュールレアリズムといった表現が主流になりつつある中、それらとは距離をおく歩み方をしていくことになる。油絵という西洋の手法と、日本の風景との関係における「写実」や「美」とはなにかを、終始追求しつづける生涯を送った。
 川端龍子に日本画を学んだベースがあったせいか、日本の風景と油絵の具とを違和感なく馴染ませる方法論で、刑部人はずいぶん試行錯誤を繰り返したようだ。このあたりの逡巡は、日本の風景を描くのになぜ油絵の具を使う必要があるのか?・・・、油絵の具とはなんと汚らしい素材なのだろう?・・・とまで思いつめた、岸田劉生の悩ましいテーマと通底するような気がする。自身ならではの美を求め、独自の道を歩みつづける姿勢は、近所に住んでいた金山平三Click!と深く共感し合うところがあったものか、ふたりは頻繁に連れだって全国各地を描いてまわった。誰もが美しいと認めざるをえない普遍的な風景美や静物美を、金山とともに突きつめていったのだと思われる。
 
 『花開く』に描かれたアトリエ北側のバッケは、いまも変わらずにそのままの情景を見ることができる。目白崖線のあちこちで見られる、下落合全域ではおなじみの風景だ。2007年3月から工事が始まってしまうそうだが、ここにマンションなど建ってほしくない。せめて、北側のバッケをコンクリート壁などにせず、原生のまま残る樹木はそのまま残してほしいものだ。『花開く』に描かれたバッケは、初夏が近い5月ごろの情景だろうか。色とりどりの花々が、いっせいに咲き乱れている様子が描かれている。曇り空で湿度の高い、日本ならではのややくすみがちな色彩だ。
 一方、『我庭(冬)』とタイトルされた風景のほうは、雪が降り積もった同じ邸裏のバッケを仰ぎ見るように描いている。アトリエの窓辺にイーゼルをすえて、葉の落ちた木立が印象的な急斜面の情景だ。冠雪した崖の斜面と、冷たく透きとおるような空の色に、陽がかろうじて射しているとはいえ、手がかじかんで絵の前に息が白く見えそうだ。近くを走る西武線の音さえくぐもった、静寂な四ノ坂周辺の空気。『花開く』と、ほぼ同じごろの作品だろうか。
 
 
 
 
 おそらく、1930年(昭和5)のある日、下落合に住んでいた建築家・吉武東里のもとに、島津家の紹介でひとりの青年が、アトリエを建てたいといって訪れた。吉武は、同じ下落合の安井曾太郎などとも交流があり、デザインに自由に凝ることができる画家のアトリエ造りは、好きな仕事のひとつだったのかもしれない。吉武はさっそく、スパニッシュ様式の独特なデザインを採用し、かなり凝った仕様で和洋折衷の住宅+アトリエの設計図を完成させ、青年に手わたした。
 こうして翌年、島津邸のテニスコートだった跡地に、刑部人のアトリエが完成する。まさに、四ノ坂のシンボルとなる、スパニッシュデザインの美しい邸宅だった。吉武が設計した、横浜税関庁舎が完成する3年前、国会議事堂が落成する5年前のことだ。空襲をまぬがれた刑部人邸はのちに、『日本の洋館・第6巻』(講談社)の表紙を飾るほどの、旧・下落合全域に残る代表的な近代建築Click!のひとつだった。新宿区による記録調査のあと、地元で保存の動きがあったにもかかわらず、たいへん惜しいことに2006年の4月に解体Click!されている。

 『花開く』のバッケ上、三ノ坂と四ノ坂の間には、吉武東里と大熊喜邦とのコラボレーションによる、巨大な島津邸が建っていた。島津製作所の社長だった島津源吉邸だ。神田美登代町にあった、島津製作所の本社社屋もふたりが手がけたといわれている。このふたりの建築家、実は国会議事堂を設計した名コンビでもある。だから、島津邸や刑部人アトリエは、のちの国会議事堂とは兄弟建築・・・ということにもなるのだ。

■写真上:左は、刑部人『花開く』(1967年・昭和42)。右は、刑部邸アトリエ北側のバッケ。
■写真中上:左は、刑部人『我庭(冬)』。右は、刑部人アトリエ跡。四ノ坂沿いの紅葉が美しい。
■写真中下:左上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる刑部人邸と、『花開く』と『我庭(冬)』のそれぞれ描画位置と方向。右上は、北側の急峻なバッケ(崖)上から見た刑部人アトリエ。巨大な採光窓とオレンジ色の瓦が、とても印象的だ。中の写真4点は刑部邸の正面玄関と、四ノ坂およびバッケ上から眺めた刑部邸の別館。このバッケ上には小径が通い、散歩する刑部人の写真が残っている。下は、刑部人アトリエの中から、採光窓ごしに眺めたバッケ。島津邸は、この上に建っていた。
■写真下:刑部人邸の北側、バッケ上にあった島津邸。吉武東里と大熊喜邦のコラボ作品のひとつ。島津家は1922年(大正11)、下落合字小上に1万坪の敷地を購入し自邸を建設している。