以前、新婚の角筈から代々木時代(1913~16年・大正2~5年)にかけて、岸田劉生Click!は下落合を訪れているのではないか・・・と書いた。おそらく、間違いなく訪れていたのだ。谷間のユリさんから、この記事へたいへん貴重な証言が寄せられている。「麗子像」を所有していた“杉山さん”は、劉生の友人だったようなので、タンスに眠っていた「麗子」は真作の可能性がきわめて高いと思われる。劉生が、このような知人宅を訪ねた可能性のほか、もう1箇所、下落合のどこを訪ねていたのかといえば、他ならない中村彝アトリエClick!なのだ。
 岸田劉生と中村彝、このまったく交わりそうもないふたりが交差したのは、当時、ヨーロッパで流行していた後期印象派の画家たちと、その作品を積極的に紹介していた『白樺』を通じてだったと思われる。新宿中村屋の裏にあった、旧・荻原守衛のアトリエを譲り受けて仕事場としていた中村彝を、岸田は何度か訪ねている。そして、1916年(大正5)8月に彝のアトリエが下落合に完成すると、同年9月に肺病と診断されて世田谷の駒沢へと転居する直前か、あるいは翌年の2月に藤沢の鵠沼海岸へと転居する直前に、岸田は下落合を訪問している可能性がある。
 土方定一の『岸田劉生』(日動出版・1971年)に、次のような記述がある。
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 中村彝と岸田劉生とは、画面のうえではなく気質のうえで、ぼくにはどこかに親しいものを感ずるときがある。こういったことは、たとえば中村彝の『エロシェンコ氏の像』と岸田劉生の『麗子像』とを対比させて考えるときには奇異に思われるかも知れないが、そういった対比の背後に、ぼくはなにか親しいものを感ずるのである。(中略)
 岸田劉生と中村彝との間に深い交渉はなく、ただこれより二、三年後の頃、岸田劉生は中村彝のいた新宿の中村屋や荻窪の画室に中村彝を訪れたことがあったらしい。岸田劉生が結婚し、その当時、淀橋の角筈にいたために(大正二年)訪れたのであろう。 (同所「三.時代」より)
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 ここで、「荻窪の画室」と書かれているのがひっかかっている。岸田劉生の日記かメモのどこかに、誤って「荻窪の画室」と記載されていたのか、あるいは土方の誤記であり勘違いなのか、中村彝は荻窪にアトリエをかまえたことは一度もない。目白文化村Click!の少しあとに造成された荻窪文化村とのつながりイメージで、「荻窪」と「目白」の下落合とを取り違えたのではないかと思われるのだ。劉生の代々木時代には、いまだ目白文化村は出現していないことを考え合わせると、これは劉生の誤記ではなく、土方の資料読みにおける勘違いではないかと想像する。その後、岸田は中村彝と深く交渉をもつことはなかったけれど、下落合の画室に一度は立っているのではないか?
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 岸田の描画ポイントへ、渋谷区が記念碑を建てているというので見に行った。もちろん、代々木時代に描かれた、一連の「切通之写生図」シリーズの描画位置だ。刀剣博物館の裏手にあたる坂道に、描画ポイントの記念碑は建立されていた。碑そのものは、下落合のあちこちで見かける坂名を記した木碑と同様で、別にどうってことはなかったけれど、他ではなかなかお目にかかれない、絵画の描画位置を記念しためずらしい碑だった。『道路と土手と塀(切通之写生図)』に描かれた坂は、ひな壇状に宅地造成化されていた大正当時とは異なり、坂に面した土盛りとその擁壁はすべて取り払われ、すでに作品の面影はまったくない。ただ、坂道自体のかたちには、どことなく当時の風情が残っていた。描かれた坂の左側道端にあるふくらみの部分が、アスファルトに覆われた現在でもそのままのように見える。
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 岸田劉生の、いわゆるデューラー風の表現は、中村彝のルノワール風のタッチとは水と油で、まったく隔絶された世界なのだけれど、岸田はなにを目的に新宿と下落合のアトリエを何度か訪ねていたのだろうか? 1917年(大正6)以降、ふたりは二度と交差することなく、岸田は静養のために湘南へと去っていった。

■写真上:岸田劉生が訪れたらしい中村彝アトリエの応接室(居間)。彝臨終の部屋でもある。
■写真中:左上は、岸田劉生『道路と土手と塀(切通之写生図)』(1915年・大正4)。右上が、豊多摩郡代々幡村代々木にあった切通しの坂道の現在。左の道端のふくらみ部分に面影があるようだ。左下は、『代々木附近の赤土風景』(同年)。右下は、切通し坂の下から眺めた風景。白い塀がつづいているが、参宮橋近くの丘上にあった山内侯爵邸だ。
■写真下:左は、劉生と同じ坂を描いた村山槐多『某公爵邸遠望』(1921年・大正10)。村山は「公爵」とタイトルを付けているが、ここに住んでいた山内豊景は字が異なる「侯爵」だ。右は、いまでも残る丸みのある塀のカーブ。下は、1974年(昭和49)の空中写真に見るそれぞれ描画&撮影ポイント。