子供のころ、浅草の六区(映画街)あたりへ出かけると、天をつく高い塔が建っていた。関東大震災Click!で倒壊してしまった凌雲閣(十二階)にソックリな、田原町にあった仁丹塔だ。その仁丹塔の真下にも、「仁丹」と赤い字で大書きした看板が設置されていたように思う。1960年代末のころだろうか? この仁丹塔の姿とともに、わたしはなぜかアドバルーンの記憶がよみがえる。きっと、近くの松屋デパートかどこかで揚げていたアドバルーンなのかもしれない。
 いまから思うと、十二階のフォルムの向こうに気球(バルーン)が揚がっているなんて、まるで明智小五郎と怪人二十面相が出てくる大正時代のような光景なのだが、子供のころの当時でも、なんとなく大時代じみた古めかしい風景として印象に残ったようだ。わたしが見上げた仁丹塔は、戦後に改めて再建されたもので、ひとつ前の建物は敗戦間近の1944年(昭和19)に解体されている。1954年(昭和29)に再建された塔は、まさに凌雲閣にうりふたつの姿をしていて、古くからの人たちが見たなら、まるで浅草に十二階がもどってきたような感慨をおぼえただろう。
 この仁丹塔が解体されたのは、それほど昔ではなく1986年(昭和61)だと聞いて、わたしはビックリしてしまった。それまでは、あの田原町の交差点にずっと変わらずそのまま建っていたのだ。わたしは、もっと早い時期に解体され、とっくのとうに消えてしまったと思いこんでいたらしい。だから、浅草へ出かけても田原町のほうまで、わざわざ足を向けることもなくなっていた。高いビルが増えたので、目立たなくなっていたせいもあるのだろう。何度も浅草を訪れているにもかかわらず、大人になってから仁丹塔の存在に気づくことはなかった。
 
 親父はその昔、仁丹を愛用していた。いや、親父に限らず、昔の人はよく仁丹を口に放りこんでいたものだ。背広の上着を脱ぐとき、たいていの大人はカサカサという音がした。胸ポケットに、仁丹のケースが入っていたのだ。特に親父の場合、タバコをやめてからは仁丹を肌身離さず持っていたようだ。いまでも、親父の書斎にあった引き出しを開けると、ほんのりと仁丹の香りがする。どこかハッカのような香りと、和漢生薬が入り混じったような独特な匂い。子供のわたしからすると、仁丹は家庭から外の世界へと出かけていく、大人の男の匂いだった。
 現在の仁丹とは中身はまるっきり異なるが、「じんたん」は江戸時代からあった薬だ。「正露丸」が明治期には「征露丸」だったように、「仁丹」はもともと江戸期には「人胆」だった。江戸の「人胆」は、いまのような和漢生薬などではなく、文字どおり人間の肝臓だ。人の肝臓が難病の「特効薬」という考え方は、広くアジアじゅうに分布している。刑死した人間の胴体から肝臓を取り出し、それを陰干ししてから粉末にし、練って丸めたものが江戸期の丸薬「人胆」。当時は不治の病といわれた、花柳病(梅毒)や労咳(結核)の特効薬というふれこみで、高価にもかかわらず飛ぶように売れたと伝えられている。日本橋小伝馬町などで処刑を担当していた山田家Click!の専売特許で、「人胆」の販売と様(ためし)斬りの礼金とで、同家は小大名に匹敵する暮らしをしていた。ときに、牢役人が人胆を横領して山田家に入ってこないことがあり、同家が幕府に訴え出た“人胆訴状”までが現存している。
 
 時代は移り、明治に入ると「人胆」はやがて消滅したが、「じんたん」=特効薬という語音のイメージはのちのちまで残っていたとみえ、1905年(明治38)に懐中薬「仁丹」が発売されている。もともと、森下仁丹(森下南陽堂)が「毒滅」という梅毒新剤がヒットして成長したのも、どこか「じんたん」つながりを想起させるのだ。
 子供にとっては、まったく美味しくない仁丹だったけれど、その味を一度はっきり思い出したことがある。子育てをしていたころ、宇津救命丸をなめてみたときだ。すぐに、あの仁丹の味がよみがえってきた。ちなみに、わたしが宇津救命丸をなめたからといって、別に夜泣きや疳の虫に悩まされていたわけではない。

■写真上:左は、懐かしい1960年代後半の仁丹塔。右は、1954年(昭和29)の完成時の仁丹塔。
■写真中:左は、国際劇場跡の近くにある天水桶。右は、国際通り名の由来となった国際劇場。
■写真下:左は仁丹塔が再建される前、1950年(昭和25)の田原町交差点。右は、国際通りを東へ1本入った浅草六区。映画館も数本立ての再上映館が多く、昔の賑わいは見られない。