中村彝は結核に罹患して以来、実に多くの医者にかかっている。いや、医者ばかりでなく、食事療法や呼吸法、沐浴法、はては民間療法から新興宗教まがいのものまで、結核治療に効果があると聞けば、当時行われていたすべての療法を試みたといってもいいかもしれない。
 その中で、彝が書簡の中で数多く触れている療法がふたつ、医師がふたりいる。その療法のひとつが、岡田虎二郎がはじめた「岡田式静坐法」だ。山手線の始発電車が走り始める早朝、日暮里の本行寺へと出かけ呼吸を整えながら静坐し瞑想する、ただそれだけの療法だった。「静坐会」は当時流行のサークル活動だったようで、健康者や病者に関係なく「静坐」をしながら呼吸を整えれば、健康が増進し病気が回復する・・・という、かなり宗教がかった療法だった。この会へ参加していたのは新宿中村屋の相馬夫妻で、中村愛蔵が社会主義者の木下尚江に奨められて入会したのがきっかけだった。中村彝は、相馬黒光(良)の推薦で入会したものだろう。「静坐会」には、たとえば下落合界隈からは早大の教授連や徳川家、相馬家などの家族も参加するなど、おカネ持ちや庶民に関係なく、大正当時はかなりメジャーで人気があったサークルのようだ。
 
 でも、これで結核が治癒するはずもなく、彝は西洋医の間を転々とすることになる。大正も半ばにさしかかると「余命2ヶ月」Click!などと言われるようになり、牧野医師(牧野三尹医師Click!のことだと思われる)から「沃土(ヨード)注射」なるものも受けているが、病状は進む一方だった。気合術の施療師や巣鴨の巫女までが、この時期に彝のアトリエへ出入している。「皆川式酸素療法」で有名だった、皆川医院へ出かけていったのもこのころのこと。いまでは、その治療内容ははっきりしないが、酸素吸入によって細胞の活性化や血行を促進し、自然治癒力を活かして結核の病巣を制圧する・・・というような施療だったのかもしれない。
 だが、しばらくつづけたこの療法もまったく効果がなく、1921年(大正10)1月31日の中村春二Click!あての手紙にこんなことを書いている。この書簡も、1943年(昭和18)の『新美術』(旧・みづゑ)6月号に掲載された、未発表のものだ。
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 私の躰もこのニ、三日急によくなつて来た様です。例の皆川式酸素療法は少しも効果がないばかりでなく、甚だ如何がわしい手当を強制しては病勢を募らせて平気で居るといふ厄介なお医者さんなので、十日ばかり前にこの方を中止し、今村様からの御心づけによつて木村徳衛博士の御診察を受けたところ、「とても駄目だらう」と診断され、少しがつかりしましたが、その後どういふものか躰の調子が大変よく、この分ならばまだどうやら駄目ではなささうです。
                   (大正10年1月31日「中村春二宛書簡」より)
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 当時、結核治療の権威といわれていた木村徳衛博士からは、「とても駄目だらう」と余命1ヶ月を宣告されているが、彝はあきらめなかった。事実、診察からしばらくすると、彝は起き上がって制作できるまでに回復していく。身体が楽になったのは、皆川医院に通わなくなったからだと自身で分析している。同年2月27日の手紙では、「皆川式酸素療法を止してから大分楽になりました」と、中村春二へ体調の報告を入れていた。
 
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 先日は失礼致した旅行は躰の工合(ママ)が思はしくないので止しました。で今は、一日も早くこの間先生のお話になつたあの偉い人に会ひたいと、それ計り考へてをります。私は毎日待つてをりますから何時でも先生の御都合のよろしい時にお伴れしていらして下さいませんか、又もし御都合が悪ければ、私の方から上つても宜しう御座居ます。
                    (大正10年○月10日「中村春二宛葉書」より)
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 木村博士の診断はつづけていたが、この日付のスタンプが不明確なハガキの中に登場する「あの偉い人」とは彼のことではない。彝の最期を看取った医師、遠藤繁清のことだ。小熊虎之助を通じて、1920年(大正9)に開設された下落合にもほど近い東京市中野療養所(通称:江古田結核療養所)の副所長を勤めていた遠藤医師は、『通俗結核病論』という本を書いていた。これを小熊が彝のもとにとどけ、これに感銘を受けた彝は1日でも早く診察を受けたがっていた。
 遠藤は患者を診察をしない病理研究畑の医師だったが、彝が幸運だったのは、彼が美術ファンで「田中館博士の肖像」Click!「エロシェンコ氏の像」Click!を観て感銘を受けていたことだ。こうして、1921年(大正10)4月より、遠藤医師は彝の主治医となった。また、これを機会に、彝の医者遍歴や治療遍歴はピタリとやんで、遠藤医師を全面的に信頼して身体をまかせることになる。彝は、さっそく今村繁三Click!あてに、遠藤医師について報告している。
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 東京結核療養所副所長遠藤繁清氏は、人格学識共に私が今までかゝつた多くの医師の中で傑出したお方だと思つてゐます。呼吸器の療養法に就いては随分名のある医師でも、その研究が不十分であつたり、旧来の誤つた考を持つてゐる人が多く、その為に患者はどの位損をするか知れません。
                    (大正13年3月8日「今村繁三宛書簡」より)
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 1921年(大正10)以来、彝の主治医をつとめた遠藤医師は、「余命1ヶ月」を余命3年近くも延ばすことができた名医だったのだろう。
 
 
 中村彝を看取ってから4年後、遠藤繁清医師は彝の親友だった曾宮一念Click!から、もうひとりの画家の結核診療を依頼されている。ちょうどそのとき、遠藤医師はフランスへ出張する予定だった。ついでにパリの画家が住む部屋へ寄って、その病状を診察する役を引き受けた彼だったが、実際に患者に会ってみるとすでに診察ができる状態ではなく、精神的にかなり不安定な様子に見えた。曾宮が診察を依頼した患者Click!とは、死ぬ寸前だった佐伯祐三のことだ。
 遠藤繁清は、くしくも下落合にアトリエをかまえた中村彝と佐伯祐三の、ふたりの最期の場面に行きあわせてしまうこととなった。

■写真上:彝のベッドが運ばれ、居間のカーテン越しに病臥しながら眺めつづけたアトリエの庭。
■写真中上:左は、「静坐会」の岡田虎二郎。右は、彝に静坐を奨めた相馬黒光(少女時代)。
■写真中下:左は、彝に「沃土(ヨード)注射」による治療を施した牧野三尹医師。右は、彝の晩年3年間にわたる最後の主治医だった、当時は東京市結核療養所の副所長・遠藤繁清医師。
■写真下:彝アトリエから庭先を描いた、いずれも1918年(大正7)制作の現存する4点の作品。左上から右下へ、『画室の庭』、『鳥籠のある庭の一隅』、『庭の雪』、『庭園』。