1923年9月1日に関東大震災Click!が起きた直後、中村彝とその周辺の動きはあまり具体的には語られてこなかった。アトリエ東側の壁が崩れ落ちClick!、雨風が吹きこむような状態になってしまった。彝自身は、9月1日から4日まで余震におびえて庭で野宿を重ね、4日目に雨にぬれて熱が38度まで上がった。さすがに、このときは近くの鈴木良三Click!の家へ避難している。
 地震が起きたとき、病状が重かった成蹊学園の中村春二Click!は箱根へ静養に出かけて留守、今村繁三Click!は日光の別邸からようやく池袋へたどり着いたものの東京市内には入れず、ほかならない中村春二の自宅で避難生活を送ることになった。9月16日に、彝は鈴木良三宅からアトリエへともどり、酒井億尋Click!が佐渡への旅行で羽茂町から連れ帰った、大工出身で画家志望の河野輝彦と協力して、東側の崩れた壁面を応急でふさいでいる。居間の東側に玄関を設けたり、アトリエの東側に小部屋を増設するのは、さらにこのあとのことだ。ちなみに、河野輝彦はのちに佐渡へと帰り、絵を描きつづけていることが『羽茂町誌』(羽茂町史編纂委員会/1998年)にみえている。
 とりあえず、アトリエの壁がふさがって雨風が防げるようになると、彝はさっそく画室で仕事を再開した。大震災直後から取りかかった作品としては、9月中に15号前後のサイズの静物画が3点、10月から年末にかけては25号の静物画が1点と、40号の大きな「をばさんの肖像」に着手している。「をばさんの肖像」とは、翌年に完成する『老母像』(1924年・大正13)のことだ。
 彝の友人たち、洋画界からは「目白派」などと呼ばれた画家たちは、震災直後のこのときどうしていただろうか? 彝が立てつづけに作品に取りかかっているのに比べ、逆に「目白派」の画家たちは作品を仕上げられる環境にはなく、生活苦にあえいでいた。大震災の影響をまともに受けて、市内からの絵の注文がさっぱりなくなってしまったのだ。曾宮一念Click!鶴田吾郎Click!、そして鈴木金平の3人は画家を廃業して、焼け跡のバラック住宅の壁面をペンキで塗る請負い業、つまり塗装会社を設立しようとまで思いつめていた。また、鈴木良三は画業をあきらめて、もともと医師の免許を持っていたので、水戸で医院を開業するために下落合を去っていった。アトリエで作品を仕上げるために、さまざまな調度類や静物を集めて積極的に仕事をしていた彝とは、対照的な時間をすごしていたことになる。

 ちなみに、佐伯祐三は震災直後に東京市内へと入り、被害を受けた風景をスケッチしてまわっているけれど、これらの作品は現存していない。絵を描いていると、自警団から暴行を受けたという証言も残っている。また、佐伯アトリエには震災直後Click!、米子夫人の実家である池田家の家族が避難してきている。同年の11月下旬、佐伯一家はフランスへ向けて旅立っていった。
 9月の下旬になって、中村春二が苦難のすえ中央線を経由して箱根からもどると、それまで止まっていた彝への支援がようやく再開された。1943年(昭和18)に出版された『新美術』(旧・みづゑ)8月号の、未発表の彝書簡を取り上げた中村秋一の文章から引用してみよう。
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 電気のつかない暗い夕闇のなかに、レンコートを着てゲートルを巻いた父の姿が見えた。風呂から上がると、彝さんのことを母に聞き、明日秋一にとゞけさせろ、と云つた。私は手紙と金子をふところにして、自警団の屯してゐる街に自転車を飛ばした。池袋の下町から目白へ入り、近衛別邸まへから目白文化村の坂を下り、通りからそれると、赤屋根の彝のアトリエまへで棕櫚の葉が青々と微風にそよゐでいるのが見えた。
 岡崎きいが、御無事だつたんですつてね、先生。そりや、そりや。などと云ひ乍ら出て来て、たゞ今よく寝てをりますから、と云つた。彝の静臥時間だつたのである。私は音を立てないやうにして車を廻し、赤瓦一つ落ちてゐないのを確めてから帰つた。  (中村秋一「中村彝の手紙(三)」より)
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 「近衛別邸まへから目白文化村の坂を下り」と、おかしな記述もあるが、これは中村秋一が目白文化村Click!の位置を、1943年(昭和18)時点まで正確に知らなかったのだろう。ハイカラな西洋館が建ち並ぶ近衛町や、彝のアトリエも含めた林泉園の周辺を、みんな目白文化村だと思いこんでいたふしが記述中には見られる。
 
 大震災の翌年、1924年(大正13)2月に中村春二が病没すると、その年の秋、中村家では母子がそろって彝アトリエを訪問し、亡くなった春二の肖像画制作の依頼をしている。中村秋一も同行したこのとき、彝アトリエから1台の俥(じんりき)が走り去るところだった。ちょうど開催されていた帝展へ、俥で出かけていた彝の帰宅直後に行き合わせたのだ。この年の暮れ、12月24日に中村彝は亡くなるが、秋までは帝展へ出かけて展示を観てまわるほど、まだ比較的体力が残っていたのがわかる。そして、ほどなく『中村春二像』は完成した。
 中村母子が、肖像画を依頼しに彝アトリエを訪れたこのとき、中村秋一が生きている彝と接した最後の機会となった。

■写真上:東側の壁面と、天井あたりの現状。この右側に、のちに小部屋が増築された。
■写真中:1929年(昭和4)ごろの、アトリエ東側の様子。震災後に玄関が設置され、さらに東側に小部屋があるのがよくわかる。普請は、現在のアトリエへと姿を変える玄関部分の増築。
■写真下:左がアトリエ東側の様子で、右がモノクロ写真の普請で設けられた玄関の現状。